或るブランドの軌跡~ファーブル・ルーバと「最古の時計ブランド」をめぐる旅

 By : KITAMURA(a-ls)

趣味で繋がっていく人と人の縁ってほんとに面白い。

お盆の休みにお線香をあげに行った親戚の家でのこと、"時計に詳しいらしい”という風評でもあったのか、お話ししているうちに、「故人が遺した何本かの古い腕時計を見て欲しい」とお願いされた。

時計であれば頼んでも見たいくらいなのでむしろラッキー、快諾である。すると金無垢のジラールペルゴやオーデマ ピゲなど、十数本の時計の中に、二本のファーブル・ルーバの古いステンレスのクォーツがあった。これもなにかの縁かと時計をだいたいの価値ごとに仕分けしていったのだが、このファーブル・ルーバに関しては、
「この2本は今の価値は難しいですが、世界で2番目に古いと言われるブランドの時計で、歴史的な価値はあるかもしれませんね」と言うと、「それだったら歴史などをよく解かる人に持っていてもらったほうがよい。どうせ使わないから、ぜひ」と、託されることになった。

そしてそのことをツイッターで呟いた。



そしたら数日たって、なんと日本のファーブル・ルーバ代理店から『その古い時計を見せてほしい』という連絡がきたのだ!
縁の面白さはここでもあって、その代理店の若き社長ルカ・オルドゥーニャ氏とはイベントを通じてすでに面識があったし、オフ会で知りあった時計愛好家が共通の知人だったり、いくつかの縁が重なってその場ですっかり意気投合したのである。

その席で盛り上がった話題のひとつが、"世界で二番目に古い"というファーブル・ルーバの歴史についてだった。

日進月歩の機械や機構が評価される機械式時計にとって、過去の歴史などさほど関係なく、実際まったく気にされない方もいる。だが、長く続いているブランドの信頼感を裏付ける証拠として歴史を重視する考え方もあるし、歴史に感じるロマンのようなものが自らのコレクションをさらに味わい深くしてくれることもまた事実である。実際、「ギネスブック」が年々更新され全世界で販売されているように、人類は"世界一”に関心を持ち、こだわる性分がある。

クォーツショックを乗り越えて復権を果たしたスイス機械式時計の世界でも、20世紀末あたりから「最古のブランドはどこか」という論議はたびたびなされてきた。
その際に候補とされるのは、ヴァシュロン・コンスタンタン、ブランパン、そしてこのファーブル・ルーバあたりだった。だが往々にして歴史には"諸説”が入り乱れる。ま、そこがたいへんに微妙で、実に興味深かったりもする。ブランパン、ヴァシュロン・コンスタンタンの歴史ならば多少なり知ってはいたものの、このファーブル・ルーバについての知識は乏しかったところ、この席での盛り上がりのおかげで、ルカ氏からファーブル・ルーバHPに所蔵されている資料や画像アーカイヴのへのアクセスキーをいただき、その歴史を自分なりに調べることが出来た。

●アブラハム・ファーブル銘のある初期作品


上の画像もそこからお借りしたものだが、ま、これもお盆から生まれた縁の賜物と、自分の中の"歴史好き”が疼いたこともあって、今回はそんな「世界最古の時計ブランド」を探すヒストリーをちょっとまとめてみた。

まずは、何をして最古の時計ブランドと呼ぶのか、その定義である。
当然それは日時計、水時計、砂時計、燃焼時計などではなく、条件①「機械式時計を製作している」こと。
機械式時計の誕生は14世紀以降となるが、ここに次の制約を付け加える。すなわち条件②「創業期が証明可能な現存するブランドである」こと。この条件①と条件②によって候補の範囲は一気に狭まる。

だが、仮にいま誰かが、クロノメーターの父1693年生まれのジョン・ハリソンの名前を商標登録して、「1727年頃から経度時計に取り組んだ歴史があるから、我々は世界最古の時計ブランドです」とか、サッカーのオフサイドのようなことがまかり通ってはならない。そこでもうひとつ条件が必要となってくる。つまり、条件③「その歴史が途切れることなく連続している」ことだ。この3つがハッキリと証明できなければ世界最古とは認められないのだ。

"諸説ナシ"で上記①②③の条件を完全にクリアしている鉄板ブランドに1755年創業のヴァシュロン・コンスタンタンがある
古そうなイメージのあるブレゲですら工房の設立はヴァシュロン・コンスタンタンの20年後の1775年だ。つまり世界最古を標榜するためには最低限ヴァシュロン・コンスタンタンの1755年よりも古い創業の記録がまずは必要となるのだが、これをクリアできるものは非常に限られてくる。

そのひとつ、我こそ最古の時計ブランドと名乗るのが1735年に登記されたブランパンで、そのHPには自社歴史について以下のような記述がある。
『18世紀初頭、ジャン・ジャック・ブランパンはまったく新しい産業である時計製造業の有望性を感じ取ります。1735年、彼はブランパンのブランドを立ち上げ、現在はベルン州ジュラ地方にあるヴィルレ村の家屋の2階に最初の工房を構えます。ヴィルレ村役場に所有権の正式登記を済ませ、先駆者ジャン・ジャック・ブランパンがつくったばかりの会社は以後、世界最古の時計ブランドになります』

そして、もうひとつの候補がファーブル・ルーバ―であるが、ブランドの基礎を築くことになるアブラハム・ファーブルが産まれたのは1702年。そして時計職人見習いを経て、会社としての登記を行ったのは、ブランパンから遅れること2年、1737年3月30日のことだった。時計産業の地として知られるスイスのヌーシャテル州のル・ロックル(Le Locle)で時計会社を立ち上げたことが公式文書として残っている。



●(画像左)1737年3月30日LeLocleにて時計会社を立ち上げることが公式に認定された書類。

「AbrahamFavre(創業者)の息子Abraham Favre(父親と同名)を正式にウォッチメーカーとして認定する」ことが公証人Abraham Sandoz-Gentonによって確認されたことが記されている。




この書類をもって"世界で2番目”という根拠が定着したようだが、実は、アブラハム・ファーブルの名前の入った公的書類はこれ以前にも存在しているのである。
1718年3月29日、ル・ロックルの隣町、ラ・ショード・フォン(La Chaux-de-Fonds)の公証人の立ち会いのもと、マスター・ウォッチメーカーGagnebin(ガニュバン)に時計師見習いとして"弟子入り”したことを示す契約書類が残っているのだ。


●(画像左)ガニュバンとアブラハム・ファーブルとの間で交わされた契約書。

内容は、「調度品の揃った部屋の提供、靴磨き、スープを温めるための暖炉の薪の用事などの代償として、時計製作の技術を指導する」というもの。
当時16歳だったアブラハムが時計製作の世界に飛び込んだことが証明される書類。

 

諸説の中には、この1718年を重視して"最古"とするものや、「1718年から1737年の間に作られたことが明確なアブラハム・ルーバの時計が存在すれば、"最古"と呼んでよいのでは」などの声があって議論のタネとなっている。


だが、この日お会いした若いルカ社長は、
『1番か2番かはそれほど大事ではなくて、アブラハム・ファーブル以降、8代にわたって繁栄したこと、早くから世界に目を向けていて、3代目のアンリ・アウグストゥス・ファーブルが世界各国を回り、1820年頃には精密に作り上げた自社の懐中時計を遠隔地市場に定着させたこと、そして高度計機能を持ったビバークなど数々の名作時計を創り上げていたという事実が、日本でよく知られていないことが残念』だと述べる。


●(画像右) 最初に国際化に着目した4代目アンリ・アウグストゥス・ファーブル(1796-1865)。
ドイツからロシア、さらにキューバを経由してニューヨーク、そしてブラジルからチリへと旅し、ファーブル・ルーバのブランド銘のある時計を世界に広めた。これらがのちに当時英国の植民地だったインドでの大成功につながる。

事実、彼の言葉どおり、国際ブランド化に挑んだファーブル・ルーバのエポックは多く残されている。
たとえば、社会契約思想で知られる政治哲学者ジャンジャック・ルソーがアブラハム・ファーブル製作の時計を携えてイギリスへ旅した記録が残されていたり(1766年)、国内外の展示会や万国博覧会で数々の受賞実績(1851 年ロンドン、1853年ニューヨーク、1855 年パリ、1857 年ベルン、1865 年ポルト他多数)を積んだこと、また、5代目のフリッツ・ファーブルがロシアのサンクト・ペテルスブルグを訪問し、ロシア皇帝アレクサンドル2世から特注された時計を納品したエピソードが彼のパスポート記録(1863年)からも判明している。
もしかしたらファーブル・ルーバは、世界最古の時計ブランド論争より先に、"史上最古の国際的時計ブランド"として認知されるべきなのかもしれない。
そして、フリッツ・ファーブルの最大の功績と言えるのが、1865年と1867年 のインド訪問だろう。この時、現地に事務所を開設し、以後インドは同社の主要市場となるまでに発展する。
このアジア市場での優位は第二次大戦後も維持され、1940~70年にかけて、ファーブル・ルーバは年間60万個の時計を製作する当時としては突出した巨大ブランドとなるのである。

●(画像下) インド市場におけるファーブル・ルーバの販売促進用資料。ル・ロックルで作られた時計が国内外の展示会や万国博覧会で数々の賞を受賞したことが描かれている。

●(左) 5代目のフリッツ・ファーブル(1828~1877)、(右)ロシアのビザとロシア滞在の記載のあるフリッツのパスポート。


しかしそれは販売網のおかげだけではなかった。
ファーブル・ルーバが売れたのは、やはり機械が良かったからである。だがその名作の記憶は確かに失われつつある。なので、ここで少しファーブル・ルーバの偉業やエピソードを年表形式でいくつかピックアップしてみる。

1925年、モノプッシャー・クロノグラフを発売。
1948年、精度コンクールにおいて、ヌーシャテル州天文台から複数の最優秀賞を授与される。
1956~7年、カレンダー搭載のキャリバーFL102 、自動巻きムーブメントのFL103(カレンダー表示なし)、FL104(カレンダー表示あり)を続々と発表。

1960年、早くからダイバーウォッチに注目し、ウォーターディープを発売。
1962年、ツインバレルの超薄型キャリバー、FL251 (厚さ2.95mm)やFL269を開発。スイスならびに各国で特許を取り、業界に革命的進化をもたらす。


1962年、高度と気圧の測定が可能なアネロイド気圧計を搭載した世界初の機械式腕時計、ビバークを開発する。
●これはルカ氏がスイスで購入したという私物のビバーク

1963年、ヌーシャテル州天文台クロノメーター検定において一等賞を受賞。
●1946年からバーゼルに出展し続けたファーブル・ルーバのブース(これは1963年の写真)とヌーシャテル州天文台からの賞状

1963年、ウォーターディープ発表から3 年、最深200m 防水のディープブルーを発売する。
1966年、50m (160ft)計測可能な、世界初の水深計搭載の機械式リストウォッチ バシィ50(BATHY)を発表
●ダイバーズウォッチの名機、200m防水のディープブルー(右)、世界初の水深計搭載モデル、バシィ

1967年、モントリオール万国博覧会で、スイス時計協会から「クロノグラフ・スポーツウォッチ」部門の最優秀賞を受賞。
1968年、世界で初めてツインバレルの自動巻きキャリバーを発売。
1960年代末頃から70 年代前半にかけて、当時の流行を意識したクッションケースのデザインが多種発売される。
1969年~、自動アラーム機能を備えたメモレイダーや、ダイバーウォッチ機能、クロノグラフ機能、24 時間表示を兼ね備えていたシースカイGMT モデルが大ヒットする。

まさに順風満帆のヒストリーである。



●最盛期には日本ファーブル・ルーバという日本法人もあったことを示す広告。わが国でも人気を博していたようだ




ところがある時期を境に、事態は一変する。
しかもそれにはわが国の発明が関わっていた。

クォーツショックである!
安価なうえに正確無比なクオーツ・ムーブメントの登場により、スイスの腕時計業界は深刻な打撃を受ける。ファーブル・ルーバも、そして、世界最古を競うブランパンも、その例外ではいられなかった。

ここで本稿はまた世界最古の話へと戻る。

50年代末、伸び続ける時計需要に応えるべくスイス時計産業組合(SSIH)の傘下に入っていたブランパンは、このクォーツショックの中でブランドとしての存在感が希薄となっていた(この時期を休眠とする説もある)。そして1983年にジャック・ピゲと当時SSIHの従業員であったジャン・クロード・ビバー(その後ウブロを躍進させ現LVMHグループ時計部門の統括)がブランパンの名称権を買い取って再建、大復活をとげるのはご存知の通りだが、1983年以前の数年間を"休眠"とするならば、これは条件③を満たさないとする説もあり、好事家の間でも議論は尽きないのだという。

一方のファーブル・ルーバは、やはりクォーツショックの影響を受け、経営者一族は1985年にブランドを売却、以後、数回にわたって会社の所有者が変転し、創業家の歴史や業績が忘れられていくという不遇に見舞われるが、21世紀初頭にクレマン・ブルネ-モレが、そして2011 年11 月16 日以降、創業家5代目フリッツ・ファーブルの遺産ともいうべきか、インド3大財閥のひとつタタ・グループがファーブル・ルーバを買収、現在に至っている。

さて、そんなファーブル・ルーバが条件③を満たしているか否か、つまり1985~2000年の間に継続性が認められるかどうかの証明はブランパン以上に難しく思える。だが、ここから話は冒頭のわたしの親戚家のファーブル・ルーバへと繋がっていく。なぜなら、これらの時計は構造から明らかに90年代のクォーツなのだ!


つまり、この不明な時期にもどこかでファーブル・ルーバ銘の時計は作られていた。
しかも、自らを追い込んだクォーツを採用して、したたかな生き残りを図っていた痕跡がここには見られるのである。面白いことに、同じくクォーツショックに苦しんだブランパンは逆に『いかなる状況下にあっても、機械式時計しか作らない』ことを社是としている。

もちろん、この2本だけでは継続性の証明には程遠いし、あくまでも可能性を秘めた化石が見つかったような段階にすぎない。ただ、ここまで調べてわかったこと、今となってはあまり知られていないが、ファーブル・ルーバには古く長い歴史があり、早くから国際化を成し遂げ、企画・開発力に優れ、そして現在もなお非常に素晴らしい作品を発表しているブランドであること、こうした事実はぜひとも多くの方に知ってもらいたいところだ。

現在のファーブル・ルーバのコレクションは、最近話題の「ハープーン」をはじめ、多くがその最盛期であった50年代から60年代の名作のヘリテージからインスパイアされたもので、それらを現在の技術と素材とで改革した作品だったりする。こうした進化の過程も非常に興味深いので、いつかまた記事としてまとめてみたい。


後日、ルカ氏に、「もしブランドのアーカイヴとして、このクォーツがいつか必要となるようなことがあったらいつでも言ってください。喜んで贈呈しますので!」と申し出て、不動品だった時計は、もちろん修理に出すことにした。

動いてこその時計である――錆付いたパーツを交換し動き出したこの時計、市場的な価値はほとんど無いが、歴史的価値、そしてわたしにこの記事を書くきっかけをくれて、いくつかの稀なる縁を取り持ってくれた価値は計り知れないものとなった。

●錆付いたパーツとそれを交換してまた動き出した時計


しかも直しに出した時計師さんに、ここまでの話をしたら、電池交換代だけで修理を請け負ってくれたのだ!


人と人の縁って素晴らしい。


だから時計趣味は辞められない(笑)。