オメガ スピードマスター 「ST145.012-67SP(1968年製)」~或るオークション・ピースに投影された文学と歴史

 By : KITAMURA(a-ls)


ここ数年、時計オークションやセカンド・マーケット市場で、ごく最近のモデル、極端な例では現行カタログ品が、かつてでは考えられなかったような異次元レベルの高額落札で流通している状況がある。
これはコロナ禍で行き場を失った消費、いわゆる“リベンジ消費”や、時計の安定した資産価値に注目した"投資的マネー"が時計マーケットに流入しているためと言われている。
先頃開催された"Only Watch 2021"の結果などはその極端な一面で、それゆえにセンセーショナルなニュースとして報道されるのだが、オークション市場が、過去に買い逃して今は製造中止となってしまった名品を探す場だったり、マニアックな愛好家が趣味の時計を求める場だったりという、オークション本来の健全さを愛する時計愛好家に支えられている事実は今も昔も変わりはない。
その意味で、ヴィンテージ・ウォッチの揺るぎのない存在感を示したのが、今年の11月にジュネーブで開催されたフィリップス・オークションでの、「OMEGA スピードマスター Ref2915-1」だ。

●「スピードマスター Ref2915-1」、フィリップス・オークション・カタログより

オメガファンにとって格別な存在である「スピードマスター」の、これは1957年製のその初号機で、初代スピマスの重要要素“ブロードアロー”の針(現在も蛍光する保存状態!)、熟成した文字盤、そしてこれまたファンのレジェンドであるキャリバー321を搭載しており、予想落札額はCHF80,000~120,000(約1000万円~1500万円)という、このエスティメートの範囲でも充分に話題のピースであったが、落札結果はなんとCHF3,115,500 (約3億8000万円)、オークションによるオメガの歴代最高の落札記録の更新という、まさに高値が頻発した2021年のオークション・シーンを象徴する一本となったのである。

個人的には、時計収集が富裕層のマネーゲームのようになってしまうことには愛好家の端くれとして大いに異議を唱えたいし、特にオメガには、普通で一般的な時計愛好家の熱情を象徴するブランドであり続けて欲しい。そういう意味で非常に興味深い「スピードマスター」が12月12日開催のフィリップス・NY オークションに出品されている。

前振りが長くなってしまったけれど、長い歴史を通じて大衆に支持されてきたコレクション・シリーズはもはやそれ自体が文化であり、"将来値上りするだろう"とかそういう邪(よこしま)な野心とは全く別の地平で、真に時計を愛する人々のマニアな情熱に裏付けられた価値があるべきと思う。

ここに紹介する「オメガ スピードマスター ST145.012」は、まさにそんな一本だ。


【ロットNo.138(12月12日ニューヨーク)】
オメガ スピードマスター ST145.012-67SP (1968年製)
予想落札額:$10,000-20,000(約112万-224万円)

 
[オメガによる注記]
- オメガ スピードマスター ST145.012は、伝説的なキャリバー321を搭載した最後のモデルです。
- ST145.012は、このモデル以前に登場した兄弟機であるST105.012とともに、アポロ 11号、12号、14号、15号、16号、17号のミッションにおいて、月面で着用された 2つのリファレンスナンバーのうちの1つです。またこれらは、アポロ13号ミッション中には機内で着用されていました。
- このモデルのリファレンスはシリアルナンバーから特定できました。
- この時計には、オリジナルのステンレススティール製のブレスレット(Ref. 1039)が 付いています。
- このクロノグラフは間違いなくオリジナルであり、発光素材もオリジナルのトリチウムがかなりの部分に残っています。
- 針もオリジナルで、ベゼルには“ドット オーバー 90”または“DON”と呼ばれているタキ メータースケールが施されています。これは、数字の90に振られているドットが0の右上の角にあるものを言います。



この「ST145.012」は、先に紹介したスピードマスターの初号機 「Ref2915-1」が積んでいたキャリバー321を最後に搭載したスピードマスターとして知られているが、この個体の最も重要な要素は、著名な米国の小説家、ラルフ・エリソン氏が所有していたスピードマスターという点にある。



「オメガによる注記」には次のように書かれている。
-この時計は1968年3月15日に製造され、1968年4月30日に当時の販売代理店であったニューヨークのノーマン M.モリス コーポレーションに入荷されたことが、オメガのアーカイブによって確認されています。
- ラルフ・エリソンがスピードマスターを何度も着用していることを示す写真が数多く あることからもわかるように、この時計は実生活で使われていたことを示しています。



ラルフ・エリソン(1913-1994年)は、1952年に出版された彼の小説 『見えない人間』で 有名なアメリカの小説家で、その作品は史上最高のアメリカ文学のひとつと見なされ、20世紀初頭のアフリカ系アメリカ人が直面する社会的および知的問題の多くに取り組んでいるとされている。

少し長くなるが、フィリップスのオークション・カタログから、ラルフ・エリソンに関する記述を抜粋引用しておく。

『ラルフ・エリソンは、第一次世界大戦の直前である1913年にオクラホマ州オクラホマシティで生まれました。いつか詩人になることを期待した母親は、ラルフ・ワルド・エマーソンに ちなんで彼の名前を付けました。3歳で父親が亡くなり、一家は大恐慌の苦難に耐え、母親はシングルマザーとして彼と彼の弟をオクラホマで育てました。
彼の名前に込められた思いを体現するかのように、エリソンは多種多様な文学 —マーク・ トウェイン、ハーマン・メルヴィル、ジェイムズ・ジョイス、ウィリアム・フォークナー、ドストエフスキー、トーマス・ハーディ、T.S.エリオット(後に彼の代表作となる小説の直接のインスピレーションとなった)、およびリチャード・ライトら —に没頭していきます。
彼は子供の頃の文学への傾倒について、後に次のように述べています。
「私は常に主人公でした。主人公になり切っていたのです。文学は差別をしません。色や人種についてだけ言っているのではありません。人間が経験するありとあらゆることを何度も何度も認識させてくれる文学の力について 話しているのです。」

1933年、彼はアラバマにある有名なタスキーギ大学へ行き、3年間学んだ後、学費を稼ぐためにニューヨークに行きました。彼は大学には二度と戻らず、1930年代のハーレムの文化に没頭していきます。ハーレムは当時、繁栄して活力に満ちあふれたブラック・アメリカの首都のような街でした。エリソンは、おそらくその時代で最も成功していた黒人作家のラングストン・ ヒューズに出会い、最初の短編小説を書くようにすすめられました。
第二次世界大戦中に米国商船で短期間働いた後、彼は彼の傑作である「見えない人間」の執筆に取り掛かりました。最終的にこの作品はジャンルに逆らう教養小説として知られるようになりました。またアメリカの社会文化的経験を文学的に捉えており、今もなお現実問題に直結し、核心を突いた作品として、出版から60年経った今日でも、世界中で広く読まれています。
彼の生涯で出版された唯一の小説「見えない人間」を完成させるのに、1945年から7年の 歳月がかかりました。執筆中はバーモント州の小さなカントリーハウスとマンハッタンのミッドタウンのアパートで、彼の妻であるファニーに、時に厳しく励まされながらタイプライターに向かいました。この小説は出版されるとすぐに大評判となり、カナダ系アメリカ人作家であり批評家、そして後にエリソンの友人となるソール・ベローは1952年の出版直後に「それは悲喜劇で詩的であり、最強の創造的知性だ」と書いています。

時計愛好家という観点で「見えない男」を読んでみると、時計や時間が小説全体に現れる明確なモチーフであることに気付くでしょう。物語の中で重要な小道具として使用され、微妙に異なる解釈で詳細に描かれており、エリソンが時間を記録することに精通していて、おそらく興味を持っていたことは明らかと言えます。小説の後半では、ある事象の例えとして時計が受け継がれていく意義が描写されていますが、その様は非常に雄弁であり説明的です。これはエリソンが、時計は受け継がれていくものとして重要な意味があると理解していただけではなく、時計によって受け継がれていく感情の重みも十分に理解していたということの表れでしょう。

「見えない人間」での成功後、彼は国内外で講義を行い、短編小説や批評的なエッセイを書くと同時に、熱心なミュージシャン(特にジャズ)であり、写真家(正確にはハッセルブラッド)であり、犬と葉巻をこよなく愛していました。リバーサイドパークを見下ろすアッパーウエストサイドの彼の家は、アフリカの偶像、額に入った写真、何千冊もの本や切り抜きでいっぱいでした。彼は完璧に仕立てられたスーツやタキシードを着、手入れの行き届いた口ひげをたくわえていました。そして彼の腕には、1968年の夏の初めから、今回のロットであるオメガ スピード マスター Ref. 145.012-67がありました。



調査の結果、エリソンがこのスピードマスターを贈り物として受け取ったのか、自分で購入したのかはわかりませんでしたが、オメガのアーカイブ抄本によって1968年にこの時計が米国に出荷されたことが確認されています。そしてその後、間もなくして、エリソンがこの時計を身に着け、リバーサイドパークでインタビューと写真撮影を受けたことがわかっています。
彼はクロノグラフ プッシャーが落ちてしまってさえも、その後もずっとこの時計を愛用していました。 きちんと仕立てられたスーツの袖口の下に隠れてしまうことはありましたが、その後25年に わたって、1994年に膵臓癌で亡くなるまで、巻き上がる葉巻の煙とともにスピードマスターは彼の腕にあったのです。

2005年に妻が亡くなってエリソンの残りの財産処理が終わり、最終的に時計は2016年にロング・アイランド・シティの小さなオークションハウスで販売されました。これを今回の委託人が購入したのですが、彼は記念碑的で歴史的な腕時計を探していたわけではなく、すべてがオリジナルであるリファレンスを探していたのです。ロット概要と「ラルフ&ファニー・エリソン慈善信託(The Ralph and Fanny Ellison Charitable Trust)」による来歴の記載、そして時計を着用しているエリソンのぼやけた写真と一致する行方不明のプッシャーだけが、この時計が本当にエリ ソンのものであるという手がかりでした。

委託人は最終的に著名なジャーナリストであるマイケル・クレリゾの助けにより、アメリカ 議会図書館にあるラルフ・エリソン・アーカイブの奥深くに、時計の正確なシリアルナンバーがしっかりと記録されたラルフとファニー・エリソンの保険証書のコピーを見つけました。この議論の余地のない来歴により、フィリップスは今回、アメリカ文学の象徴の大切なスピードマスターを紹介できることを光栄に思っています。


●項目No.45を注目

ダイアルはこのリファレンスの典型ともいえるわずかな経年変化をしていますが、時計の状態は良好です。委託人は時計を注意深く整備し、ムーブメントのみをクリーニングして調整し、 時代的に正しいクロノグラフプッシャーを取り付け、耐水性を確保するためにガスケットとクリスタルを交換しました。
なお、オリジナルのクリスタルも時計に付属します。それ以外は、オークションハウスから購入したときの状態のままです。これは、エリソンが所有していた25年間にわたって、彼が着用していたものとほぼ同じ状態です。


All Photographs by:© Phillips Auction House

(引用は以上)

時計趣味には時計そのものだけでなく、時計を通じて味わうことのできる知的興味があったり、その時計の個体にまつわる歴史に想いを馳せたりできる、文化的な楽しみがある。

その作品に"時"の概念を描写し、作家が生涯手放すことのなかった愛用の時計。
時計には受け継がれていくべき重要な意味があると理解し、その時計とともに受け継がれていく感情の重みを描きあげていたエリソンの、現実と作品とに深く投影されたレガシーとしてのこの「スピードマスター」は、まさに文化遺産といえる。

資産価値だとかSNSでの承認欲求だとか見栄だとか虚栄心だとか傍から見ていて恥ずかしくなるような欲からではなく、歴史や芸術や興味や文化から時計を評価する、そうした機会を大事にすることが、時計趣味の本来的な意義につながっていく。それは本当に望ましいことだと、まだ信じているので、2021年を締めくくる時計オークションにおけるその良心の試金石として、ぜひとも注目していたい「スピードマスター」なのである。

More info on
https://www.phillips.com/detail/omega/NY080121/138