オーデマ ピゲ“歴史研究家” マイケル・フリードマン・インタヴュー ① ~APがAPであり続けられる理由

 By : KITAMURA(a-ls)

オーデマ ピゲには"歴史研究家”という職位があるのをご存知だろうか?

主な仕事の内容は、オーデマ ピゲ ミュージアムで受け継がれているブランドの遺産に関する出版活動、展覧会の開催をはじめ、ブランドの歴史やその作品に関する調査や分析を行うのはもちろんのこと、オーデマ  ピゲ ミュージアム コレクションのためのアンティークウォッチ、ヴィンテージ・ウォッチの収集などにもあたるという。

歴史あるブランドがその歴史を大切にし、自社のヘリテージへの評価や分析を行い、ブランドの価値に重みを加えていくこと、それはブランドの誇りと責任であり、ひいては現在の顧客の資産価値を守ることにも通ずることは言うまでもない。



●オーデマ ピゲ歴史研究家、マイケル・フリードマン氏

他のブランドにはないその職責を担うオーデマ ピゲの“歴史研究家”マイケル・フリードマン氏が、今夏にオーデマ ピゲのパーペチュアル・カレンダー・ウオッチに関するプレゼンテーションのために来日したということで、お話を伺ってきた。



 ――まず、オーデマ  ピゲの歴史研究家としての仕事内容を教えていただけますか?
マイケル・フリードマン氏(以下、):わたしの仕事内容は、それは常に同じものではなく、それは週毎でも違います(笑)。メインの業務をひと言でいうのならば、過去と未来と現在とを針と糸で結び付けていくというようなことでしょうか。それが根幹の仕事になると思います。
解かりやすい例では、ヘリテージ部門とのリサーチを、様々な執筆やレクチャーやイベントを通じて発表し、外部の方々とそれらの知識をシェアしていくという仕事があります。また、コレクターの皆さんと一緒に時間を過ごすというのも大きな仕事のひとつですね。
世界中にAPのお客様が様々いらっしゃいますが、そういった方々が日々どうやって過ごされているかを知るということも大きな仕事になっています。具体的には、モダン・ウォッチのコレクター、ヴィンテージ・ウォッチのコレクター、それぞれいらっしゃるのですけれども、そういった方々をル・ブラッシュの工房にお連れしたり、プライベートを共にさせていただいたり、自分自身でオークションに参加したりとかですね。
それから、ブランドにとって外部の領域とのつながりにも携わっています。例えばアート・バーゼルがそうです。
アートの世界や、車の世界、そしてワインの世界などと、時計作りの世界をつなげていくことで、アートや車やワインのお客様たちに時計の知識を啓蒙したり、時計作りの知識に詳しくなっていただいたりすることも、わたしの仕事になっています。ただ、自分はセールスに携わっているわけではなくて、それが結果的にセールスに繋がってしまうこともあるかもしれないのだけれど(笑)、それはまったくわたしの目的ではありません。端的に言えば、調べること、書くこと、話すこと、それらによって自分自身が学ぶこと、そしてそれらを教えること、その5つが主な仕事ですね。

――他のブランドにこういうポジションがあるのかどうか良く知らないのですが、これはオーデマ ピゲ独自のポジションなのでしょうか?
:時計業界で、このようなポジションは他にはないかもしれないですね。オーデマ ピゲのミュージアム(ヘリテージ)部門のディレクターに、セバスティアン・ヴィヴァスいう人物がいるのですが、彼がいるということがブランドにとっては非常に大きく、他のブランドで通常のヘリテージ部門のディレクターが担っていることは、ほぼ彼がやってくれている形になります。わたしの役割は、ヘリテージ部門でわかったことを全世界のオーデマ ピゲ内部で共有すること、あとは世界中のオーデマ ピゲのお客様ならびに、外部に向けても発信していくことです。
わたしにとってラッキーなことは、実に様々なすべての部門、それも世界中の、才能ある同僚たちと仕事ができるということです。世界各国のどの部門にも、たいへん才能あふれるスタッフがいます。セールス、マーケティング、ヘリテージ部門、生産から、マネージメントから、役員から、とにかく社内のいろいろな部門のすべての人とコネクトできることが計り知れないメリットなのです。それぞれの人がそれぞれの視点を持っています。たとえば、ある日本のスタッフと商品について意見を交わしたときに、日本のスタッフは日本市場のことをよく知っているので、“ある新商品が日本のコレクターの方にどういう受け止めをされるか、好まれるのかどうか”というところを、わたしはすぐに知ることができる機会があるわけです。世界各国に様々なスタッフがいるので、新製品ひとつをとってみても、世界各国の受け止め方が即座にわかる。わたしはそれをまるでDJのようにリミックスして、それらをまとめて、情報として社内に戻せるのです。これは私にとってはすごく幸運なことだと思っています。

――いまのポジションは、どなたか前任者がいてそれを引き継がれたのか、あなた自身が基盤を作られたのか、どちらでしょう?
:前任者はいません。まったく新規に作られたポジションです。このポジション自体、オーデマ ピゲのクリエイティヴィティ、創造性というものがすごく表れたポジションだと思います。ホントに驚くべき会社ですよ(笑)。

――どのような経緯で、このポジションが出来たのですか?
:フランソワ(=フランソワ-アンリ・ベナミアス氏・オーデマ ピゲ CEO)とわたしは、オーデマ ピゲが2000年に行ったプロジェクトがきっかけで知り合ったのですが、その1年前から彼とはいろいろやり取りをしていたので、もう18年前ですね、最初に会ったのは。以来、何年も連絡を取り続けていたのです。当時のわたしが10年間運営していた会社というのは、お客様とプライベートにやりとりをする仕組みで、あまり表舞台に出る会社ではなく、かなりクローズドな世界にいたのです。利益はものすごくあったのですけど(笑)。でも自分の中に、もう少し公的な存在になりたいという想いと、自分自身もそのポリシーに賛同できる会社で働きたいという想いがありました。そしてフランソワと連絡を取っていろいろと話していく中で、『じゃあ“歴史研究家”という役職はどうだろう』という話になり、4年前にオーデマ ピゲに入社したのです。

――“歴史研究家”としての、今回の来日の目的を教えていただけますか?
:今回の来日の目的は、最初にご質問されたわたしの仕事内容とまさに関連しています。つまり、リサーチしたことをレクチャーして皆さんにプレゼンテーションするという業務で、今回はカレンダー時計のストーリーといいますか、その変遷と変化の歴史ついて、そしてオーデマ ピゲがいかにカレンダー時計を追求してきたか、その歴史を少し皆さまに披露したいということです。今回はカレンダーに焦点を当てたものになっていますが、わたしのラインにおいては、ある時はミニッツ・リピーターやクロノグラフやパーペチュアル・カレンダーなどの複雑機構に焦点を当てたものだったり、時にはそれが装飾や仕上げに特化したものになったり、テーマによって異なったものに焦点をあてます。同時に、以前お会いしたお客様やプレスの方と再会するというのも目的ですし、オーデマ ピゲ ジャパンの同僚たちに会いたいというのもがありました。

――ではパーペチュアル・カレンダーの変遷について教えてください。オーデマ ピゲは懐中時計の時代から非常に優れたカレンダー時計を多く製作していますよね?
:その通りです。最初のパーペチュアル・カレンダー時計は腕時計ではありませんでした。まずは懐中時計をどんどん小さく小型化していくことが、ひとつの大きな挑戦となりました。懐中時計をさらに小型化するということは難しくて、それには何十年もの年月が必要でした。20年代、30年代、40年代でも、われわれはさほど多くのカレンダー・ウォッチは作っていません。しかもカレンダー機能はパーペチュアル・カレンダーではなかったのです。もちろん今でも懐中時計は途絶えず作り続けてはいるのですが、腕時計ということでいうと、1955年に初めて閏年表示付のパーペチュアル・カレンダーが登場するまで、腕時計サイズにすることが出来なかったのです。しかしながら1955年に作ることが出来たパーペチュアル・カレンダー時計はたった9本でしかありませんでした。その9本以降しばらく生産がなく、次に出されたのは1978年ですから、かなりのブランクがありました。
1978年まで、もっと具体的に言うと、1921年から77年までの56年間に、カレンダー機能を搭載した腕時計というのは、わずかに208本しか作られていません。この208本のうちの20本がクロノグラフとコンプリート・カレンダーが搭載されたもの、そして208本のうち、1955年の9本だけがパーペチュアル・カレンダーでした。1978年に、わたしたちは薄型の自動巻きキャリバーCal.2120を、パーペチュアル・カレンダー機能搭載のCal.2120QPというキャリバーにして、初めての薄型の自動巻きパーペチュアル・カレンダー腕時計を発表しました。
2012年にロイヤル オークがサイズを大きくして、39mmから41mmになったのですが、その41mmのラインから、2015年にパーペチュアル・カレンダー搭載のロイヤル オークが発表されました。それは78年の2120 QPを少し改良して大きくした5134というキャリバーを搭載しているモデルになります。



そして今年、2017年に、ブラックセラミックでは初となるパーペチュアル・カレンダーをロイヤル オークで出したのですけれども、そのことは今年3つのアイコンを一緒に提示したことを意味しています。つまり、パーペチュアル・カレンダーという複雑機構、ロイヤル オークというアイコニック・モデル、そしてブラックセラミックでケースとブレスレットを作ったことです。


多くの人が忘れがちな点ですが、時計にとって、もちろんメカニズムの存在というのはすごく大切なのですが、それと同時にケースやダイヤルやブレスレットというのも、その重要な歴史の一部であり、時計製作の歴史における重要な一部であり続けているわけです。この点で今回のブラックセラミックは、メカニズムという観点からも、そして歴史あるロイヤル オークというフォーム、それから素材という意味でも、特に重要な位置づけにある時計だと思います。この3つのカテゴリーへの実験や試みは、オーデマ ピゲにとって常にとても重要なものとなっています。

――オーデマ ピゲのパーペチュアル・カレンダーの特徴というと、どういう点でしょうか?
:たとえば、そこに展示されている四角い懐中時計ですけれども(9月までオーデマ ピゲの銀座ブティックに展示してあったもの)、ケースがホワイトゴールドとイエローゴールドのコンビネーションになっていて、1922年当時としては実に型破りで、とても画期的な懐中時計です。薄型のエクストラ シンでありながら、パーペチュアル・カレンダーを搭載しています。しかも懐中時計なのにクッション・シェイプというのも、あまり慣例にはないものです。これぞまさにオーデマ ピゲならではの存在です。わたしたちオーデマ ピゲはいつもこうした、型にはまらないというDNAを持っています。
1972年に生まれたロイヤル オークが2017年にブラックセラミックで出たことも、1922年にこの型破りなマテリアルで、しかも最先端のパーペチュアル・カレンダー機構を持ち、かつ通常とは異なるクッション・シェイプの懐中時計が作られたことも、まったく同じオーデマ ピゲのDNAなのです。


●クッション型のパーペチュアル・カレンダー懐中時計(写真右)

もし今日のコレクターが、オーデマ ピゲ、バシュロン・コンスタンタン、パテック・フィリップの懐中時計を持っていたとしましょう。でもそのコレクター氏は、この部屋のかなり離れた位置からそれらを見て、どれがオーデマ ピゲの懐中時計か、すぐにお解りになるはずだと思います(笑)。まったく違うからです、サイズ、形、素材、いつも画期的です。
もちろん、オーデマ ピゲは伝統的な時計作りを大事にしているのですが、決していつも伝統的なわけではない。わたしたちはクラッシック・ウォッチを愛していますし、多くの伝統的なクラシック・ウォッチを製作しています。機構は伝統的だったとしても、わたしたちはしかし、常にそこに型にはまらないものをミックスしようとします。そのバランスに非常に優れているのがオーデマ ピゲなのです。
それは時計だけはなく、時間計測や、それら理論的なことも含めてなのですが、この会社で何が可能かとか、どういった決断がなされるかというのは、本当に他のブランドにはないような独自なものがあるので、いつも本当に驚かされています。

――そのようなバランス感覚をこれほど長い期間持ち続けているブランドは珍しいですよね。
:やはりそれは、いまの経営陣、創業家ファミリーが常に意識しそれを念頭に置いているからだ思うのです。創業以来の理念というものを、わたしたちはずっと持ち続けることが出来ている。それこそが、歴史が絶えることなく生き続けている利得なのです。会社の運営が創業家の手を離れたことがない、これはとてもとても希少なことで、尊敬に値する幸運です。創業一族の経営が続いていることで、歴史的な記憶もそこにあり続けます。オリジナルは決して失われません。



――そのオリジナル根源は、時計製作に対する姿勢のようなものですか?
:すべてですね。創業者のふたりが創業当初の19世紀に行っていたような議論が、今日のジュウ渓谷にも起こっていて、それは今でも社内で論じ合われています。一番解かりやすい例は、「どこまで手作業を残し、どこから機械にするのか」という議論でしょう。
これは現代でも時計業界における大きな問題ですが、1900年の時計業界においてもそれは同様でした。産業革命が起り、結果、スイスの時計業界は発展しましたが、それは機械化したことによるものではなく、実はそれは、19世紀後半のスイスがマスプロダクト・テクノロジーを選ばなかったことに依るのです。
産業革命下のイギリスやアメリカで、彼らはいかに安く大量に作るかということを欲し、大量生産の道に進んだわけですが、ジュウ渓谷ではエボーシュを作るのに、まずどの機械を使おうかという選定はしたのですが、そこから先の部分はすべて伝統的な手作業で行うという“妥協”もしました。それこそがスイス時計が今日ある理由でもあります。スイスの時計作りの在り方を決めたのは、スイスが何を選んだかというよりは、どちらかと言うと、何を選ばなかったかというのが、大きな決め手になったのかもしれません。

――パーペチュアル・カレンダーはほぼ完成された機構に思えますが、まだ進化の余地や可能性はあるとお考えですか?
:シューマッハのロイヤル オーク コンセプト・ラップタイマーもやはりそうで、あのような過去にはなかった機能のクロノグラフ・メカニズムが出るなど、誰も予想していなかったでしょうし、スーパーソヌリのミニッツ・リピーターも、やはりみなさんが予測していなかったようなものだと思います。コンプリケーションの3大部門、クロノグラフ、ミニッツ・リピーター、パーペチュアル・カレンダーはいつも研究・調査の対象となっています。開発部門では、すべての複雑機構について平等に研究・開発を行っているので、世に出るまで年月はまだ少しかかるかもしれないですけれども、オーデマ ピゲの素晴らしい天才時計師たちは、日夜ハードワークを行って、次にまた新たなるパーペチュアル・カレンダーを世に出すための研究開発を行っていると、わたしは信じています。
一方それと並行して、グランドコンプリケーションの腕時計も製作を続けております。われわれオーデマ ピゲにとって、グランドコンプリケーションというのは、パーペチュアル・カレンダー、ミニッツ・リピーター、スプリットセコンド・クロノグラフが必ず搭載されていなくてはならないということが明確な定義として存在していますので、もちろんそこでもパーペチュアル・カレンダーが研究されています。
1969年に日本でクォーツが登場してから、ほぼ50年経っていますが、その時には誰もが機械式時計は終わるだろう思ったでしょうけれど、機械式時計は今もその役割を持ち続け、わたしたちを驚かせ続けています。もちろん機械式時計は、コンピューターCGやCNC旋盤やキャドなど、現代のあらゆるタイプの先端技術の大きな恩恵を受けています。しかしそれらによって、歴史的な技術をさらに洗練させ、そこから新たな側面を引き出して行くということができているので、おそらくコンプリケーション機構に関しても、今後さらに発展していく余地はあると思います。



オーデマ ピゲがオーデマ ピゲたりえる理由として、彼が力説していたのは、途絶えることのないその歴史と、時計製作に対する揺るぎない信念と情熱だった。

会社とは株主のものであるという認識が強まってきた今日、なかでも投機的な株主は、一年単位、極端には4半期ごとに成果を求める。製品の方向性が短期間に大きくブレたりするブランドの多くが、こうした“物言う株主”の声に動かされた結果であることが多い。

これに対しオーデマ ピゲは、創業以来一貫して創業家が運営を行っている、スイスでも数少ないブランドのひとつである。時計開発、たとえば新しいムーブメントの開発には数年の歳月が必要とされるが、それが完成する数年先のマーケットを完璧に予想することは難しい。しかし結果として、オーデマ ピゲのロードマップには、流行や経済情勢などの外的要因に惑わされることのない、実に堂々とした軌跡が描かれるのである。

目先の売上や数字に対して泰然としていられるこうした土壌は、本当に時計を愛するスタッフを多く引き寄せる。マイケルはその典型だろう。そして会社は時計愛好家にとってさらに良い存在となる好循環を続けていくのだ。
インタヴュー後編は、これもあまり他ブランドが関わりを持ちたがらないセカンド・マーケット市場におけるオーデマ ピゲの取り組みについて、まさにその渦中にあるマイケルがそのスタンスを語ります。どうかお楽しみに。





マイケル・フリードマン【オーデマ ピゲ歴史研究家】

マイケルL. フリードマンは時計エキスパート、鑑定家、キュレーター、講演家、オークショナーとして多彩な活動を行っています。2013年に歴史研究家としてオーデマ ピゲに入社。主な役割は、オーデマ ピゲ ミュージアムのための時計を収集すること、オークションハウスやコレクター、各種エキスパートたちとの関係を深めること、ブランドのコンテンツを創造し発展させることです。
フリードマンはオーデマ ピゲ ミュージアム&ヘリテージのディレクター、セバスティアンン・ヴィヴァスのチームと共に、継承されてきたブランドの遺産に関する出版活動、展覧会の開催、調査、分析を行う他、オーデマ ピゲ ミュージアム コレクションのためのアンティークウォッチ、ヴィンテージ・ウォッチの収集にあたっています。
時計に関するマイケルのキャリアは、1996年にWillard House & Clock Museumでのアシスタントキュレーターから始まりました。1997年、The National Watch & Clock Museum に学芸員として入り、時間測定の歴史に関する1,400 m²のエキジビションスペースを共同で作り出しました。 
1999年、マイケルはニューヨークのクリスティーズの副社長兼時計部門長に任命されます。販売が伸び多くのコレクターを獲得したあと、2003年にMLF Horologyを創設、世界各地のコレクター、及びサザビーズとアンティコルムを含むオークションハウス向けのコンサルティングとキュレーターサービスを開始しました。
フリードマンは時計に関する講演を幅広く行っています。ブランドの歴史、時間測定の歴史の解説、市場トレンドと変化について、また特別なコンプリケーションの発展と歴史に関する詳しいレクチャーなどを行っています。
マイケルはチャリティーオークションも多く手がけており、その中にはエリック・クラプトンのクロスローズセンターやスタン・リ—財団などがあります。