デテント天文台クロノメーター(仮) デテント脱進機について

 By : CC Fan
ずいぶん前(もう半年…時が流れるのは本当に速い)に掲載した、ラ・ショー=ド=フォン(La Chaux-de-Fonds)のアンティークショップJUVAL HORLOGERIEで働く元クラーレの関口陽介氏に再会した記事の続きです。
前回の記事の最後で謎かけのように、幸運な出会いを果たした木箱に収まったムーブメントの写真を掲載しました。

今回はその正体について書きたいと思います。
先ずは写真を再掲。



一見すると木製のケースに収まったデスククロックに見えますが、懐中時計サイズのムーブメントが簡易ケースに収められ、さらにサンドイッチ構造の木製ケースに収められています。
恐らく100年ぐらい前のもので、ローマンインデックスの文字盤はホーロー(エナメルとほぼ同じ)、針は青焼のブレゲ針で、過ぎ去った時を感じさせるものの良好なコンディションを保っています。



ムーブメント側も。
装飾は少ないですが素晴らしい作りです。

タイトルに書いてしまっていますが、木製のケースから"天文台クロノメーター"に出場したムーブメントではないか?と推測されています、しかし前回の記事でも書いたように付属する書類が全くないため、推測の域を出ません。
ケースが四角くなっているため精度測定のための各姿勢を簡単にとらせることができ、測定作業をやりやすくしています。

まずは天文台クロノメーターについて簡単に。

古来、時間情報の大元となる標準時を定めていたのは天文台でした、これは地球上の位置が固定された天文台から天体の動きを観察し、そこから自転速度を求め、計算により基準時間を求めることができるからです。
この測定結果を基に高精度な振り子時計を校正することで必要充分な基準時間を作り出していました。

逆に、正確な時計と観察技術があれば星の動きから目印がない海の上でも自分が今いる位置を知ることができ、これを天測航法と言います。
天測航法に必要な海の上で使う高精度な時計をマリン・クロノメーターと呼び、これはCOSCで知られるクロノメーター規格のご先祖様です。

大航海時代、正確な航海はマリン・クロノメーターの精度に大きく依存し、正確なマリン・クロノメーターが求められていました、そこで天文台が測定を行う精度コンクールを行い、腕に覚えのある時計師が競い合うようになりました。
時代は少し後になりますが、セイコーも天文台クロノメーターコンテストに挑戦し、勝ちまくっていました(そしてコンテスト自体が消滅します)。

天文台クロノメーターに出場したムーブメントは市販品をチューンナップしたものからほとんど専用設計の"レーシングマシン"まで様々だったようですが、いずれも作り手の技量のすべてを注ぎ込んだ精鋭機ぞろいだったようです。
このコンテストに参加した個体を一般的なクロノメーターとは区別し、"天文台クロノメーター"と呼んでいるようで、過去にはセイコーとジラール・ペルゴがコンテストに参加し、精度が保証されたムーブメントをケーシングし、市販品として販売したそうですが、一般的にはあくまで専用機で出回るものではなかったようです。
今回の個体は限りなく天文台クロノメーターっぽいですが、証拠がないため(仮)としています。

さて、前回の記事で"現在の普通のムーブメントとは決定的に違うところ"と書いた部分を。



ガンギ車がテンワに近いのがわかりますでしょうか。
そう…デテント脱進機です!

最近、デテントめいていたので、この記事を書こうという気持ちになりました。

デテント脱進機は前述のマリン・クロノメーターのためにピエール・ル・ロワが発明した脱進機構で、機構としては現在のスイスレバー脱進機(アンクル脱進機)よりも先の発明です。
精度は素晴らしいですが、後述するようにいろいろ問題があり、スイスレバーが一般化するにつれマリン・クロノメーター以外では使われなくなってしまいました。

個人的にはデテント脱進機は時計趣味の"Holy grail"であり、いつかは手に入れたいと思っていました。
カンタロス(Kantharos)と最後まで迷ったクリストフ・クラーレのマエストーゾ(Maestoso)は"古典的なロングレバー・ピボット・デテント脱進機を腕時計化する"という意欲作で、ムーブメントが表に露出しているアップサイドダウン型でなければ、すなわち今回のムーブのような作りであれば、間違いなく手に入れていたでしょう。



以前撮影したマエストーゾ。
ムーブメントの作りは本当に素晴らしいのですが、表側にあるのだけが残念。

マエストーゾについては他のクリストフ・クラーレタイムピースと同じく動画があります。



通常状態ではレバーの中腹にある止め石がガンギ車の回転をブロックしており、ガンギ車とテンワの回転が一致する方向のみテンワ軸の外し石がレバー先端を押すことで止め石が解除され、ガンギ車が回転しテンワ軸の振り石を叩くことで衝撃を与える仕組みです。
テンワの回転が逆の時はレバー先端のパッシングスプリングという一種のワンウェイクラッチが素通しさせることで止め石の解除は行われず、テンワは自由に動いたままです。

これだけだと分かり辛いので、なぜか同じタイミングで発表されたブルガリのデテント・ウエストミンスター・ミニッツリピーターの動画も。



アミラリオ・デル・テンポ(AMMIRAGLIO DEL TEMPO)、デテント脱進機に加え、4音でクオーターを打ち鳴らすウエストミンスター・ミニッツリピーターも備えた超複雑時計です。
1:00のあたりから18世紀のマリンクロノメーターの重要性、腕時計化するための超小型化(Extreme Miniturization)、そしてデテント脱進機の動きまでわかり易く説明されています。
逆方向ではパッシングスプリングにより空回り→順方向でテンワ軸の石がレバーを弾く→止め石が解除される→ガンギ車が回転→テンワの振り石をガンギ車が叩くという一連の動きがわかるかと思います。

スイスレバー脱進機と比べてデテント脱進機は、以下のメリットがあります。
ガンギ車の衝撃面がこじるように石を押し上げ、アンクルを経由してテンワに力が伝わるスイスレバーに比べ、デテントはガンギ車が直接テンワを叩く、角度もほぼ垂直でロスが少ない。
脱進機がテンワとかみ合う拘束角が50°程度あるスイスレバーに比べ、10°程度と小さく、テンワはほとんど自由振動することができる。
止め石とガンギ車、振り石とガンギ車が当たる角度は両方とも90°に近く、スイスレバーのようなこじる動作はほとんどない。
と、いいこと尽くめで、さらにはアンクルのような複雑な部品や、衝撃面を持つガンギ車を作らなくても比較的簡単な構造で実現できます。

ここまでいいこと尽くめなのに使われないのはそれを打ち消すほどのデメリットがあるからで、単純に言ってしまえば衝撃に弱いということです。

止め石はスイスレバーのように2組あり必ず片方が出ている時はもう片方が入っているという構造ではなく、1つしかなく、固定はバネの力頼み、衝撃を受けてしまうと外れる恐れがあります。
さらに、外れた後、ガンギ車の次の歯までに元の位置に戻って停止させられるかもパネ頼りで、うまく戻らないと2歯以上進んでしまいます。
一応、昔ながらのデテントでも振り石が取り付けられている部品とガンギ車の形状を工夫することで1歯ずつ送るような構造にはなっていますが、根本的な解決には至っていなかったようです。

スイスレバーではテンワが1回転以上しようとしてもアンクルに当たって(振り当たり)止まりますが、デテントでは回転できてしまい、さらに止め石の解除も行われてしまいます。

また、原理的に拘束角が小さいということは、高振動化には不向きです。
これはガンギ車のロックが解除されて加速し、テンワに追いつく前に振り石が通過してしまうからです。



さて、マエストーゾで腕時計化したクラーレはどうやったかというと、問題を解決しなおかつデテント脱進機の美観を崩さないようなデバイスを追加しています。
主眼が"デテント脱進機そのものの美しさを見せたい"なので、追加デバイスはなるべく目立たないようになっています。

まず衝撃による止め石の外れ問題はデテントレバー先端に追加レバーをつけ、テンワ軸の追加カムと噛み合うようにしました。
テンワのカムは本来止め石が解除されるタイミングのみ凹んでおり、それ以外のタイミングでは衝撃が加わったとしてもレバーがカムに押し戻されるため止め石は解除されません。
ガンギ車に入力されるトルクはコンスタントフォースで定力化されており、止め石がちゃんと戻れるようなトルクしか加わらないようになっています。

テンワが360°以上回転する問題はテンワに噛み合う歯車を追加し、歯車の上のピンをスプリングで受け止め360°以前にブレーキがかかるようにしました。
想定される通常の振り角ではブレーキは働かず、あくまで衝撃で振り角が大きくなった時の保険です。

更に、コンスタントフォースの入力軸を支点に地板全体がボールベアリング支点・スプリング支持のフローティング構造になっており、衝撃を受け流すような構造になっています。



高振動化に不向きなので、振動数は4振動/秒(2Hz)と抑えられています。
高速カメラで確認すると4振動のものは十分に接触時間が取れていますが、6振動に上げるとほとんど接触していないことがわかります。



スケルトンのものは関口氏が"手を動かして"作成した高振動バージョン。
大きなネジとスプリングが地板をフローティングさせている機構です。

クラーレは"デテントのまま"にこだわりましたが、衝撃に弱い問題は止め石1つのレバーを改善すればよいことは明確です。

オーディマ・ピゲ脱進機はレバーにかわり、止め石が2つあるアンクルに変更、アンクル先端に特定のタイミング以外はアンクルが動かないようにするセーフティー機構(クラーレのカムと同じ考え、こちらの方が先)を追加したうえで、"片方が出ている時はもう片方は入っている"という条件を満たすことができる配置にして絶対に1歯ずつしか進まないようにしてあります。
これはロビン脱進機として理論は完成していたものの、うまく動かすことができなかったものをオーディマ・ピゲが完成させたものだそうです。
アンクルとガンギ車はテンワがガンギ車と同じ方向と逆方向どちらでも動きますが、テンワへの衝撃はデテント同様同じ回転方向の時だけです。

ジョージ・ダニエルズが発明し、オメガが大規模な工業化を行ったコーアクシャル(同軸)脱進機は更に進んだ考え方で、スイスレバーとデテントのいいとこどりのような構造です。
スイスレバー同様の安全機構を備えたアンクルによりスイスレバーと同じ安全度を持ちますが、スイスレバーのこじる動作はありません。
テンワとガンギ車の回転が同じ方向の時はデテント同様ガンギ車が直接テンワに衝撃を与え、逆方向の時はアンクル経由で衝撃を与えます。
アンクル経由もこじるのではなくレバーを垂直に押すような動きで、レバーによって力の方向を変えているだけなので、スイスレバーよりはロスが少なくなります。



三又のアンクルのうち、真ん中がアンクル経由で力を伝えるための石、両端が停止用の石です。
コーアクシャルの名前の由来である同軸構造のガンギ車は、下側が止め石とガンギ車への直接衝撃用、上側がアンクル経由の衝撃用です。

デテント同様振動数が上げられませんでしたが、最近のものはシリコン部品を多用し、各部品を軽くすることで一般的な高振動機の基準である8振動/秒まで振動数を上げ、さらに非磁性にすることで磁気帯びにも強くしてあります。

私見ですが、スイスレバーは"優れている"というよりデテントのような"致命的な欠点"がない機構で、それゆえ広く使われてきました。
工業力の進歩により行きつくところまで行きついた感のある時計業界、過去の理論的には優れていながらも当時の技術では作ることができなかった機構が見直されても良いのでないでしょうか?
もちろん技術の進歩によって実現した全く新しい機構も…

最後に関口氏に提供いただいた作業前の写真をいくつか…



キャリングケースやディスプレイスタンドを作るために外形サイズを伺った時の写真。
木の箱のまま飾るか、中身だけ取り出すか迷うところです。



ケースはピンで固定するような作りになっています。



テンワが停止した状態。
テンワに切れ目があり、バイメタル切りテンプであることがわかります。



ケースだけの状態。
懐中時計よりも簡易な真鍮製?のケースに収められています。
ホーロー文字盤とブルースチールの針も充分なコンディション。

時合わせ方式はダボ押しと呼ばれる11時に見える補助ボタンを押しながらリュウズを回すと時間が合わせられる方式です。



時代を感じさせる真鍮ケース。



針と文字盤。
文字盤自体もクラックなどはなく良いコンディションに見えます。

1月の時は天文台クロノメーターだと思っていましたが、もしかしたら卒業制作時計かもしれないと思い立って調べたり、ヴティライネン先生をはじめとした識者に伺ったりしましたが結局、何も情報はありませんでした。
関口氏によるオーバーホール(洗浄・調整)をつけて欲しいという条件でお願いし、現在作業を行っていただいており10月の旅で受け取れる予定です。
作業中の関口氏より、色々新情報をいただいており、もしかしたら更に正体に迫れるかもしれません。

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