A.ランゲ&ゾーネのアイコン、アウトサイズデイトのモチーフであるゼンパー歌劇場の五分時計とその180年の歴史~5分刻みの時間。ちょっと付記あり

 By : KITAMURA(a-ls)


まだ、Watches&Wonders2021新作を全部載せきっていないブランドもあるところで恐縮なのだが、A.ランゲ&ゾーネから興味深いプレスリリースが届いたので紹介する。

先日もA.ランゲ&ゾーネ新作の件で周年からの推測を試みたが、そこでも見落としてしまった、盲点を突かれたもうひとつ別の周年があったのだ。
今年、2021年は、A.ランゲ&ゾーネのアイコンであるアウトサイズデイトのモチーフとなった5分時計をその舞台上に備えるドレスデンのゼンパー歌劇場(ゼンパーオーパー)の落成から数えて、180周年にあたるのだ。

これを記念する意味でA.ランゲ&ゾーネ本社から公式のプレスリリースが出されたのだが、ゼンパーオーパーの5分時計とアドルフ・ランゲとの関係についてはいつか書きたいと思っていたことがあったので、このリリースに付記する形でまとめてみた。

まずは公式プレスリリースの引用から。



5分刻みの時間
ゼンパー歌劇場の五分時計とその180 年の歴史



ドレスデンのゼンパー歌劇場の落成式が盛大に執り行われたのは、180 年前の1841年4月12日でした。この歴史上の出来事を鑑み、A.ランゲ&ゾーネは当時すでに技術的な驚異とされた五分時計に思いを馳せます。私たちには、この時計に深い思い入れがあるのです。それには二つの理由があります。その一つは、その生みの親であるヨハン・クリスチャン・フリートリッヒ・グートケスが、時計産業の先駆者であるフェルディナント・アドルフ・ランゲの師であり義父でもあったことです。そしてもう一つは、この時計に着想を得てランゲ・アウトサイズデイトが生まれたことです。



●1983 年に作成された五分時計のイラストとランゲ1


重大な使命
ヨハン・クリスチャン・フリートリッヒ・グートケスは、新築された歌劇場のために、これまでに見たことのないような時計を作ることになりました。ザクセン王家がグートケスに「立派な時計」を作るようにと命じたのです。それは、ダイヤルと針を備えた従来の時計とは一線を画し、「同種の時計の中でも珍しい時計」でなければなりませんでした。
それに対するこの奇抜な回答は、17 世紀のフランスで作られた二つの枠に囲まれた数字ディスクまたは数字ホイールで時刻を表示する時計にヒントを得たものと思われます。別の説では、同じくデジタル表示のミラノ・スカラ座の舞台時計がモデルだとされています。
いずれにしても、ドレスデン王立歌劇場(ゼンパー歌劇場の当時の正式名称)の落成式で、時刻をはっきりと読み取れる
舞台時計に聴衆は騒然となりました。この時計は当時、ザクセン時計技法の傑作とされ、製作したグートケスはその業績によりザクセン王国宮廷時計師に任命されました。


●ドレスデン劇場広場に建つゼンパー歌劇場


画期的なアプローチ
グートケスは、五分時計に前例のない画期的な構造を採用しました。それは、数字が印刷された布を張ったローラー2 本を歯車で駆動し、そこに二つの窓を開けたフレームを取り付けたものでした。左窓にはローマ数字のI からXII で時が示され、右窓にはアラビア数字の5 の倍数、つまり5から55で分が表示されます。正時には右の分窓には何も表示されません。これが、後にA.ランゲ&ゾーネが採用するアウトサイズデイト表示の原型となりました。アウトサイズデイトでも、1日から9日までは左窓には何も表示されません。

初代の五分時計には設計図も説明書も存在しないため、グートケスがこの数字ローラー式時計を製作した理由は想像する以外にありません。公演中に客席が暗くなっていても、最後列の席からでも時刻を読めるようにするため、というのが最も合理的な理由です。直径約160 センチの大型ローラーで高さ約40 センチの数字を回転させます。これと同じくらい読み取りやすい時刻表示をアナログ時計で実現しようとしたら、舞台前部の上方に設けられたスペースには収まらなかったことでしょう。グートケスは従業員と一緒にこの時計を設計・製作しました。そのうちの一人が、後に娘婿となり共同経営者となったフェルディナンド・アドルフ・ランゲだったのです。


災禍を乗り越えて
1869年、建築家ゴットフリート・ゼンパーが設計したドレスデン初の歌劇場が大火災で焼け落ち、有名な舞台時計も焼失してしまいます。歌劇場を再建するにあたり、グートケスの弟子の一人ルートヴィッヒ・トイプナーに新しい舞台時計の製作が命じられました。トイプナーは、焼失した五分時計のことを熟知していたのです。その結果、伝統的な塔時計の要素と古典的な時計の構造原理を組み合わせた大きな時計ができあがりました。この時計は、トイプナーの工房と、現在もライプチヒに存在するツァッカリア塔時計工房によって、当時の最新の技術標準に合わせて製作されました。ルートヴィッヒ・トイプナー、その娘婿のエルンスト・シュミット、そしてその息子フェリックス・シュミットが三代に渡ってこの二作目の五分時計の保守整備を担当し、その技術知識を20 世紀に伝えました。



●ルートヴィッヒ・トイプナーの設計による1896 年製の五分時計の置き時計タイプの模型。素材: 木材、ガラス、ゴールドプレート仕上げの真鍮、ゴールド製歯車。高さ: 31cm。この模型は現在、ドレスデンのツヴィンガー宮内にある数学・物理学サロンに展示されている。

見事な模型にも、二代目の五分時計の機能原理が再現されています。1896 年、ルートヴィッヒ・トイプナーは見本市に出品するために縮尺10 分の1 の模型を、弟子のフーゴ・ライポルトとオットー・ヘアマンに作らせました。トイプナーの死後、その模型はヘアマンに寄贈されました。そして彼は後に、その模型を持ってハワイへ移住します。1951年、模型はトイプナーの孫フェリックス・シュミットの手に渡り、1980 年にドレスデン数学・物理学サロンに寄贈されました。


新時代到来の予感
東独時代に、第二次世界大戦で破壊されたゼンパー歌劇場を再建する際に、五分時計も新しく製作されることになっていました。三代目となる舞台時計は、技師のクラウス・フェルナーとハリー・ユーリッツを中心とする専門家チームが製作した傑作です。設計図および書類はすべて火災で焼失してしまったため、高齢になったフェリックス・シュミットの説明とトイプナーの見事な実用模型を頼るしかありませんでした。
大きな五分時計の復元は、文化遺産を保存するという目的に即しつつ駆動技術を慎重に近代化しつながら、6 年以上の歳月をかけて行われました。
戦争で破壊されてから40 周年を記念して1985年2月13日、長い年月を掛けて再建されたゼンパー歌劇場の落成式が盛大に執り行われました。それ以来、舞台上方で音もなく時を刻む五分時計は世界中からやって来る聴衆を楽しませています。


●1841 年頃のドレスデン王立歌劇場のイラストとランゲ1。




●客席から見た、舞台上方にある現在の五分時計 ※上の画像はWATCH MEDIA ONLINE主催のドイツ工房の旅(2019)での訪問時



アイコンウォッチの原型
その数年後、再統一されたドイツで、五分時計を讃える特別な出来事がありました。その独特の時刻表示から着想を得て、ランゲ1 のアウトサイズデイト表示が生まれたのです。フェルディナント・アドルフ・ランゲの曾孫であり、ヨハン・クリスチャン・フリートリッヒ・グートケスの玄孫のウォルター・ランゲが1994年10月24日、ドレスデン王宮でランゲ1 を発表すると、観衆は息を呑みました。その原型となった偉大な五分時計と同じように、この時計でも視認性を向上させたいという思いが技術革新につながったのです。アウトサイズデイトと、表示要素をオフセンターに配置したダイヤルデザインが醸し出す妙味で、ランゲ1 は時計史に残るデザインアイコンになっています。


●現在の五分時計のムーブメント




五分時計の180 年の歴史
1838年  
ヨハン・クリスチャン・フリードリヒ・グートケスは、新しいオペラハウスのために針と文字盤のない時計の製作を依頼される。

1841年
ゴットフリート・ゼンパー設計のドレスデン王立歌劇場にグートケス作の五分時計を取り付けて、落成式が行われる。

1869年
初代ゼンパー歌劇場が火災で焼失。

1878年
マンフレート・ゼンパーが父の設計図をもとに建設した二代目の王立歌劇場がオープン。

1896年
グートケスのかつての弟子ルートヴィッヒ・トイプナーの工房で、五分時計の模型を製作。匠の技が光る仕上がり。

1907年
トイプナーの没後、娘婿のエルンスト・シュミット、そしてその息子フェリックスが舞台時計の保守整備を担当。

1912年
舞台を改築するため、時計を取り外すことになる。以前から計画されていたカナの取り付け直し、ムーブメントに改良された重しとリリースレバーが取り付けられる。

1928年
フェリックス・シュミットが歌劇場のすべての時計を一か所で電気制御する装置の製造を受注。

1945年
第二次世界大戦の終戦直前にドレスデンが激しく空爆され、ゼンパー歌劇場が全焼。客席と舞台は火炎に包まれ、五分時計も焼失。

1979年
再建にあたって、マイセンのクラウス・フェルナー塔時計工房とハリー・ユーリッツ技師に舞台時計の復元を発注。

1985年
ゼンパー歌劇場が再建され、三代目の現在の五分時計を掲げてオープン。



[図版提供および謝辞]
本プレスリリースの情報は、ザクセン州立歌劇場、数学・物理学サロン、A.ランゲ&ゾーネに保管されている出版物や文書に基づくものです。図版の作成にご協力いただいた皆様に感謝いたします。
1ページ:舞台時計の時刻表示のイラスト(複製)とランゲ1;クラウス・フェルナーとハリー・ユーリッツによるドレスデンのゼンパー歌劇場を再建する時に行われた五分時計復元のための分析資料(1980年)、ザクセン州立歌劇場所蔵の歴史資料
3ページ:五分時計の模型、数学・物理学サロン、ドレスデン美術館
4ページ:銅版画のイラスト(モノクロ)J.C.A.リヒター作(1841年)とランゲ1;クラウス・フェルナーとハリー・ユーリッツによるドレスデンのゼンパー歌劇場を再建する時に行われた五分時計復元のための分析資料(1980年)、ザクセン州立歌劇場所蔵の歴史資料
その他の出典:ハリー・ユーリッツ「ドレスデン・ゼンパー歌劇場の五分時計(Die 5-Minuten-Uhr der Semperoper in resden)」
(1986 年)、雑誌「時計とジュエリー(Uhren und Schmuck)」23 号、VEB Verlag Technik/DDR;ラインハルト・マイス「ザクセンの高級時計(Feine Uhren aus Sachsen)」、Vol I, p.62, Callwey(2012 年);数学・物理学サロン 展示品レポート、五分時計について(Objektreport des Mathematisch Physikalischen Salons über Modell der Fünf-Minuten-Uhr.)




引用は以上。

書きたかったことというか疑問だったのは、アドルフ・ランゲと5分時計の関係性というか、彼がどこまでこの5分時計の製作に関わっていたのかという点である。
というのも、自分が目にしたランゲ関連資料の多くは、『ゼンパーオーパーの5分時計は義父グートケスとアドルフ・ランゲが製作した』とか、極端なものになると、『アドルフ・ランゲが製作したゼンパーオペラ座の5分時計をモチーフとしたアウトサウズデイト』というようなニュアンスで書かれているものが多い。

今回のプレスリリース作成にあたって、A.ランゲ&ゾーネ本社も丁寧に調べたようで、ここでの表記は『…グートケスは従業員と一緒にこの時計を設計・製作しました。そのうちの一人が、後に娘婿となり共同経営者となったフェルディナンド・アドルフ・ランゲだったのです。』と、かなりマイルドな表現になっている。

なぜここに疑問を持つに至ったかというと、ランゲ・ヒストリーの中で、5分時計とおなじくらい有名なエピソードである「旅の記録」をアドルフ・ランゲがまとめ上げることになるヨーロッパ各国での修行時期との兼ね合いという点からである。
アドルフ・ランゲが修行の旅に出るのは1837年8月、つまり、グートケスがオペラ座用の時計製作を発注される一年前なのだ。
そして4年間の修業を終えてドレスデンに戻るのが1841年。それが何月だったかは調べ切れていないが、仮に新年早々に帰国したとしても、落成式が執り行われる4月までは僅か3か月なので、5分時計の設計や製作に多大な貢献をすることは難しかったのではないかという疑問がずっとあったのだ。

なので、今回の公式プレスリリースで、"アドルフ・ランゲはそのうちの一人"という表現に落ち着いたのは、とても正直かつ現実的表記で(もしかしたらグートケスと書簡をやり取りして意見交換していたかもしれないし、ね)、長年の疑問を払拭するに充分な、非常に好ましいものであった。

ちなみに1841年に帰国したアドルフ・ランゲは、アルツ山地の窮状を救うため、時計製作を地場産業とするべくザクセン王国との交渉(計画立案や助成金の給付申請など複雑多岐にわたる書類作成)に入り、それが1845年のA.ランゲ工房(A.ランゲ&ゾーネの前身)設立につなるので、非常に多忙だったはずだ。

蛇足かもしれないが、1841年の帰国から1845年のA.ランゲ工房設立までのアドルフ・ランゲ関連年譜を添付して、この稿を閉めくくりたい。


1841年 
アドルフ・ランゲ、グートケスの元に帰還(日付不明、ご存知の方がいたらご教示乞う)。
4月12日 5分時計で知られる、ゼンパーオーパー落成。(4月13日と表記された資料もある)。

1842年 
グートケス、王宮召し抱え時計師(宮廷時計師)に昇進し、王宮時計塔内の執務住宅に居住。
アドルフ・ランゲがグートケスの娘シャルロッテ・アントーニアと結婚、グートケス工房の共同経営者となる。

1844年 
アドルフ・ランゲはドレスデンで、ムーブメントにシリンダー脱進機を付けた簡素なクオーターリピーターを製作。

1845年 
グートケス&ランゲの時計がベルリン博覧会で銀賞を獲得。
5月21日 アドルフ・ランゲ、ザクセン王国内務省と、3年間にわたり見習工15人に時計技能教育を施す契約を締結。国から見習工向け工具の購入費用を含む助成金の給付を受ける。
8月8日 アドルフ・ランゲの義父、グートケス没。
12月7日 アドルフ・ランゲがグラスヒュッテに工房を開き、針、アンクル、ガンギ車および補正テンプを搭載した時計作りと、時計職人見習工(地元の若者15名)の教育を開始。
12月17日 長男リヒャルト誕生


この1845年は特に、義父の死去、長男誕生、工房開設と、ほんとうにアドルフ・ランゲの人生において重大な転機の年であったことがわかると思う。
お読みいただき、ありがとうございました。


[A.ランゲ&ゾーネ]
ドレスデン出身の時計師フェルディナント・アドルフ・ランゲは、1845 年に時計工房を設立し、ザクセン高級時計産業の礎を築きました。彼が製作した価値の高い懐中時計の数々は、今でも世界中のコレクターたちの垂涎の的となっています。第二次世界大戦後、東ドイツ政府によりA.ランゲ&ゾーネは国有化され、一時はその名が人々の記憶から消え去ってしまうかと思われました。
しかし1990 年、フェルディナント・アドルフ・ランゲの曾孫ウォルター・ランゲがブランドを復活させます。現在では、ゴールドまたはプラチナのケースを使った腕時計を中心に、毎年数千本のみ製作されています。A.ランゲ&ゾーネの時計には必ず、自主開発され、手作業で入念な装飾と組み立てを行ったムーブメントが搭載されています。1990 年以降に開発された自社製キャリバーは67 個を数え、A.ランゲ&ゾーネは世界でも最高峰の地位を確立しました。その代表作には、一般モデルとして初めてアウトサイズデイトを搭載しブランドを象徴するモデルとなったランゲ1 や、瞬転数字式時刻表示を搭載したツァイトヴェルクがあります。まれに見る複雑機構を搭載するツァイトヴェルク・ミニッツリピーター、トリプルスプリット、そして2013 年に発表された6 本限定のブランド史上最も複雑なモデル、グランド・コンプリケーションは、受け継がれてきた時計作りの技をさらに高めようとするA.ランゲ&ゾーネの真摯な姿勢を体現した時計です。2019 年には軽快さとエレガンスが共存するオデュッセウスを発表し、A.ランゲ&ゾーネの歴史に新しい章を開きました。




インターネット
alange-soehne.com | facebook.com/langesoehne | youtube.com/user/alangesoehne
instagram.com/alangesoehne | #alangesoehne | #semperoper | #5minuteclock | #lange1 | #zeitwerk
#ランゲアンドゾーネ | #ランゲ