追悼の辞~故ウォルター・ランゲ会長告別式

 By : KITAMURA(a-ls)

ご葬儀の模様は先日記事としてUPしましたが、本日、ランゲ&ゾーネ本社より、教会で故ウォルター・ランゲ氏に捧げられたヴィルヘルム・シュミット現CEOならびにヘルムート・クノーテ元CEOの追悼の辞、そして当日の写真をいただきました。

本来、社内用であり外部には出さない資料とのことですが、当WATCH MEDIA ONLINEにのみ特別に掲載を許可していただけるということで、故ウォルター・ランゲ氏とご家族へ哀悼の意を表して、その全文を掲載いたします。

また、訃報から今日まで、ウォルターさんとのお別れに関して、わたしに力を貸してくださったすべての皆さまに、この場を借りて心から感謝を申し上げます。

●グラスヒュッテのサンクト・ヴォルフトガング教会にて葬儀説教をするマーカス牧師






ランゲ・ウーレンGmbH
前代表取締役ハルトムート・クノーテ氏の追悼の辞

ご遺族の皆様、ご親族の皆様、ご会葬の皆様、
2016年12月8日の午後、私はランゲさんと私たちが共有していた事務所でお会いしました。その時ランゲさんは、会社が成長したこと、それまでの道のりをうれしそうにお話しされました。この日、ランゲさんはたいそうお元気そうでした。グラスヒュッテにいることに幸福を感じておられるようでした。

事務所では上機嫌で、時計師の卵たちと会う日の準備をしておられました。ランゲさんは、毎年年末に訓練生たちと懇談会を開いていました。コーヒーとシュトレンが供されたテーブルで、彼自身の仕事と私生活のことを話すと、若い訓練生が大きな関心をもって聞き入っているのがよく分かったので、この会をとても楽しみにしていました。この懇談会には、自作の掛時計と製図など仕事の成果品をきちんと揃えて持参するのが常でした。いつも、きちんと準備をされる方でした。訓練生たちは、ウォルター・ランゲという希有な人格者を尊敬していました。何といっても、さまざまな経験と成功の物語に彩られた充実した人生を送られた方ですから、無理もありません。若い人たちは特に、ランゲさんの少年時代、時計師の職業訓練を経てマイスター試験に合格するまでの時代、そして戦争中の体験に興味津々でした。簡潔に言いますと、彼らは、ウォルター・ランゲという人間の形成に大きく影響した体験すべてに、関心を持っていたようです。あの日は、何もかもが順調でした。

それだけに、その翌日にランゲさんが倒れたという知らせを受けたときには、愕然としました。エルツ山地のピルナ町にある病院に何日間も入院されました。ほぼ毎日、会社の方がランゲさんを見舞いに訪れました。お見舞いの方とも話ができる状態で、会社の様子を知りたがったり、残念ながら参加できなかったクリスマス会での出来事にも耳を傾けておられました。私を含め皆さん、間もなく快方に向かい、リハビリで完全に快復されることを願っておりました。
大晦日と元旦に、ランゲさんと携帯電話で話しをしたときにも、「もうすぐ良くなりそうだ」とおっしゃって、冗談も言えるほどでした。人生を肯定的に、楽観的に見るのが、ランゲさんのトレードマークです。自分の生命に限りがあることを考えて暗く沈むことなど、ランゲさんにとっては論外です。ランゲさんは、人生に終わりはないとでも言うように生きてきたのです。まことに、得るところの多い方でした。

2017年1月17日、現実が私たちに襲いかかります。ランゲさんの訃報は、私たちに衝撃を与えました。何人かの社員と、じきにお元気になられるだろうと話したばかりのところに、この悲しい知らせが届いたのです。ランゲさんと共に歩んだ26年と数カ月におよぶ良き時代の幕が降ろされた―そう思いました。ランゲさんと私は、仕事上で銀婚式よりも1年長い月日を共にしてきたのです。脳裏にはランゲさんとの想い出と、さまざまな思いが走馬燈のようにくるくると駆け巡り、時の流れの速さをしみじみと感じました。

グラスヒュッテのライヒェル町長の執務室でランゲさんとお会いした時のことが、昨日のことのように思い出されます。故ブリュームラインさんとランゲさんが、ランゲ・ウーレンGmbHの再建計画のプレゼンテーションをするために町長を訪問された時、私はデンマークから見学に訪れた時計技能専門学校の先生方の一行の付き添いとして居合わせたのです。皆が自己紹介した後、ランゲさんとブリュームラインさんから、「クノーテさん、社員第一号としてランゲ・ウーレンGmbHの再建を助けてくれませんか」と話を持ちかけられました。その決心をするのは簡単ではありませんでした。私は当時、まだグラスヒュッテ時計公社に勤めており、将来については別のことを考えていたのです。アルテンベルク町にあるラーデンミューレという食堂で、そしてスイスのシャフハウゼン町にあるIWCで、事業コンセプトについて何度も話し合った末に、私たちはついに合意にいたりました。
1991年、工房の再建が始まりました。仕事に明け暮れましたがやり甲斐に満ちた日々でした。必要なものを短期間で整え、目に見える成果を出すことが求められました。新会社設立に伴って試さねばならないことを列挙し、次々に片付けていきました。

ランゲ家は戦後、東独政府に財産を接収されていたので、まさにゼロからの再出発です。しなければいけないことの筆頭は、有能な人材を集めることでした。ウォルター・ランゲさんは何をするにも、グラスヒュッテ町の人々のことを第一に考えていました。革新的な高級時計を開発できるまで未開拓の道を邁進する覚悟を持った、意欲旺盛なチームの編成が急務です。廃退してしまった手工芸技能を復活させねばなりません。ウォルター・ランゲさんを中心とするチームは、ドイツの時計製造業の中でおそらく最高級ブランドである「グラスヒュッテ A.ランゲ・ゾーネ」の名を再び世界の檜舞台に返り咲かせることに成功しました。

●ウォルター・ランゲ氏(左)とヘルムート・クノーテ氏(右)、2015年のSIHHにて。


ランゲさんは、豊富な知識を惜しみなく伝授するとともに、心に深く刻み込んだランゲ家の伝統についても語ってくれました。ランゲさんのお話を聞くと、手工芸としての時計製造技法の秘密をのぞくことができ、新しい着想の手がかりが得られました。ランゲさんの経験と想い出は、おびただしい数のメモ、インタビュー記事、ビデオとして記録されています。
私たちは、グラスヒュッテとシャフハウゼンの工房を定期的に訪問した時や、その他の機会で会うと、夕方に落ち合って、これからのことを話し合ったり、新しいプロジェクトのアイデアを練ったりしました。そのような時、ランゲさんには次々とアイデアが湧き、実行に移す勇気を与えてくれました。このようなブレーンストーミングは、市場の変化に対応するための正しい方策を見つけるのに非常に役に立ちました。ランゲさんと私は昵懇じっこんの間柄でした。二人の信頼関係を深め、共通点を確認できたのも、ランゲさんのおかげです。ご家族とのお付き合いも親密度を増し、さまざまなパーティーでご一緒させていただきました。

時には意見が食い違い、すぐに妥協点を見つけられないこともありました。特に、私がランゲさんの言うことをきちんと理解していないと感じられたときには、なかなか折り合いが付きませんでした。私たちの最強の仲間であった奥様のユッタさんに助け船を出していただいたことも、一度や二度ではありません。ユッタさんは、自ら進んで話合いに加わって解決して私たちを優しく諭してくださったり、あるいは巧みにご主人の意見を変えさせてしまったこともあります。ウォルター・ランゲさんは、愛すべき友人であり、細やかな気配りのできる同僚であり、周囲の人々のことを大切にする人でした。
ウォルター・ランゲさんは、時計業界および宝飾品業界に豊かな人脈をお持ちでした。それは、この二つの業界で取引先を見つけるのに、大いに役立ちました。彼は、シュツットガルトに近いフォルツハイムに在住していた時代に多くの実業家との人脈を築き、そのおかげで私たちは最初から、重要なパートナーを獲得することができたのです。

ウォルター・ランゲさんは、A.ランゲ&ゾーネの発展と存続の基盤でした。ブランドの躍進は、社員のやる気を高めると同時に、彼らの能力を一層引き出しました。ランゲ・ウーレンGmbHの社員はみな、仕事への意欲が高まったのはランゲさんのおかげと感謝しています。彼はその人柄で、社員、正規代理店および時計の所有者の皆様、グラスヒュッテ町の人々、そして当社とゆかりある多くの人々を魅了しました。不撓不屈の精神で、ランゲ・ウーレンGmbHの発展のために尽くしました。ブランドと会社の代表者として、数え切れないほどの行事に足を運び、会社の信用を高めるために多大な貢献をしてくださいました。
ウォルター・ランゲという人物が存在しなければ、A.ランゲ&ゾーネはこれほどの成功を収められなかったでしょう。彼の時計に関する専門知識、豊かな発想力、品質および品格を見抜く確かな目、モラルの高さ―それらはすべて、私たちの模範でした。私たちは、ウォルター・ランゲさんのご逝去とともに、私たちの生き方に多大な影響をおよぼした一人の人物を失うことになりました。しかし、ウォルター・ランゲは、私たちの心の中にいつまでも生き続けるに違いありません。



**************************************************



ランゲ・ウーレンGmbH
CEO ヴィルヘルム・シュミット氏の追悼の辞


●教会で追悼の辞を述べるシュミット氏



「時計だけではなく、何よりも自分自身に要求するべきことがある。それは、決して立ち止まってはならないということだ。」

ウォルター・ランゲ会長のご家族の皆様、ご会葬の皆様、
ウォルター・ランゲ会長のこの言葉をスローガンに、私たちは今年のジュネーブサロンに臨みました。
エントリーの壁に、「Never stand still」の大きな文字を掲げました。ジュネーブサロンの二日目、私のもとに会長ご逝去の訃報が届きました。その瞬間、「決して立ち止まってはならない」という心構えが、会長から私たちに託された遺志、ミッションとなりました。

この言葉は、1990年に66歳でグラスヒュッテに高級時計産業を蘇らせた男性のことを、実によく物語っています。私がウォルター・ランゲさんに初めてお会いしたのは、2010年12月7日、フェルディナント・アドルフ・ランゲの工房設立165周年を祝う式典会場でした。初対面で、この男性がただならぬ人物であることを察知しました。何よりも印象的だったのは、偏見と先入観のない開放的かつ誠実なお人柄です。泰然自若とした中にも自信が漂い、機知に富むと同時にユーモアのセンスも抜群でした。私は初めての会談で、「自分が成し遂げたことをちゃんと分かっている、だからこそ自信に溢れていると同時に、自分が築いた会社でありながら一歩身を引くほど謙虚な男性」という印象を持ちました。

どの企業にも、設立者の人となりが反映されるものです。それは、A.ランゲ&ゾーネにとっては二重の意味で真実であります。当社の初設立と再設立の間には、およそ1世紀半もの時が流れています。二度とも、勇気と先見の明のある男性が、大きな目標と社会的責任に突き動かされて会社を興しています。ウォルター・ランゲさんは、事業の成功だけでなく、常に故郷の人々のことを気に掛けていました。時計製造業で、郷里の人々が永続的に生計を立てていけるようにしたいと考えていたのです。「A.ランゲ&ゾーネの事業がうまくいけば、グラスヒュッテも活気づく」という信念を持っておられました。

ウォルター・ランゲさんは折に触れて「私は過去へ橋渡し役である」とおっしゃっていました。ランゲ一族の中で、懐中時計時代のA.ランゲ&ゾーネを自ら経験した最後の家長という意味では、確かにそのとおりであります。同時に、勇気ある決断で会社を再建し、将来への架け橋の強固な基盤をも築いてくださいました。
ウォルター・ランゲさんは、常に将来のことを考えて行動していました。彼の遺産である会社が、ウォルター・ランゲという人物がいなくなっても存在し続けるように、早いうちに手立てを講じていたのです。ウォルター・ランゲさんは、当社の記憶と良心そのものでした。それは、ランゲ家の家風と伝統を守るために、それにふさわしくないものを見極める確かな感覚を備えていました。新開発したモデルの細部に気に入らないところがあれば、忌憚なく意見されました。ウォルター・ランゲさんは、ザクセン高級時計産業界を代表する最初のアンバサダーとして、世界中で活躍されました。

最後まで、当社の象徴であり続けました。展示会や重要なイベントには必ず、足を運んでくださいました。工房で働く社員、特に職業訓練生は、ウォルター・ランゲさんを父親のように慕っていました。グラスヒュッテに来られると必ず、工房を一巡りされたものです。世界中の取引先、コレクター、ジャーナリストの皆様にとっては、最良の対談相手でした。当社の取締役および私にとっては、かけがえのない相談相手であり、私たちは彼の知識経験から多くのことを学びました。

ウォルター・ランゲという不世出の人物の記念碑を建立しても、それは、もう一つのメモリアルでしかあり得ません。なぜなら、最も美しく生き生きとした記念碑は、彼自身がすでに作ってしまったからです。それは、世界中で羨望を集めるA.ランゲ&ゾーネの時計であり、時計作りの町として復興を果たしたグラスヒュッテです。
ウォルター・ランゲさんの死によって、私たちは大きな喪失感に襲われると同時に、ウォルター・ランゲの亡き後も将来への架け橋の建設と続けてゆくという大きな使命を与えられました。彼の遺志を引き継ぎ、会社を後世に残すべく、私たちは全力を尽くします。
そのために、私たちは決して立ち止まらず、前進して行きます。



**************************************************







●最後に挨拶に立つ、ウォルターさんのご継嗣ベンジャミン・ランゲ氏










●そして、グラスヒュッテ墓地で永遠の眠りにつかれました。






 
Walter Lange(1924–2017)






どうか・・・・・いつまでも
空の上からグラスヒュッテを見守っていてください。