【夏の自由研究】ランゲ探偵局~1936・ベルリン オリンピック懐中時計の謎

 By : KITAMURA(a-ls)


この時期になると、ヨーロッパは例年サマー・バケーションとなる。
昨年同様、今年もコロナの影響でバケーションという感じではないだろうが、工場やオフィスがお休みとなるので新作のニュースなどがあまり出なくなってくる時期なのだ。

というわけで、記事のネタが乏しくなるこういう時期(お盆時期や年末年始)を利用して、個人ブログ時代には、「夏の自由研究」とか「ランゲ探偵局」とかいう企画モノを書いていたのを思い出し、以前に体験した真贋鑑定が東京2020開催中の今にも重なるオリンピック・ネタなので、その記録を書いてみた(笑)。

題して、

新・ランゲ探偵局~1936・ベルリン オリンピック懐中時計の謎

A.ランゲ&ゾーネの時計や懐中時計に関わり始めてだいぶ経つ。その間に、日常生活においては何の役にも立たないような知識とか経験が積み重なっていくのだが、時には…まぁ実に稀なことだが、そんな知識が誰かのお役に立つこともあったりする。これはそんな稀なお話のひとつ。

ある日のこと、A.ランゲ&ゾーネのヴィンテージ懐中時計の画像が送られたきた。
なんでも、「ナチス政権下で開催された1936年のベルリン・オリンピックで、メダル獲得者に対して副賞として贈られたランゲ懐中の購入を持ち込まれているのですが、真贋の鑑定をお願いできませんか」という依頼のメールが、画像付きで送られてきた。
(以下、時計の掲載画像は依頼者支給のもの)












いかがだろう。
上記の画像から、実はほぼ真贋の目途はつくのだが、これでお分かりの方はかなりの上級者だ。

ではひとつひとつ見ていこう。まずは箱である。
蓋を閉じた表側の画像がコレ。


これはGUBの箱である。
一番上の画像に「VEB Glashutter Uhrenbetriebe」という印刷も見えるが、"VEB"とはソビエトの人民公社を指す語であり、GUBは、第二次世界大戦の敗戦でナチスが崩壊した後、共産化された東ドイツで、ランゲやミューレを含むグラスヒュッテの7つの時計会社を強制的に国有化して1951年7月に作られた組織なので、ベルリン・オリンピック時にはまだ影も形もないのだ。
しかし、この箱が後年のものだとわかっても、時計自体の真贋はまだ終わっていない。

次に、この時計の製造時期だが、4枚目と5枚目の画像には、「90559」というムーブメント番号とケース番号が写っている。
A.ランゲ&ゾーネはとても律儀で、ほぼ製造順にムーブメント番号を付け、それはケース番号と99%一致する。その点では約束通りであり、1936年製作とすれば9万番台のムーブメント番号であるのはそれほど矛盾しない。

では持ち主と思われる画像の人物は誰なのか?
ベルリン・オリンピックは、ナチスのプロバガンダとしても多くな役割を果たすことになった大会だったこともあり(聖火リレーが発明されたのもこの大会から)、名作と評されるレニ・リーフェンシュタールの記録映画「オリンピア」をはじめ、多くの画像や動画が残っているので、調べていくと、意外と簡単に判明した。陸上1万メートルの金メダリスト、イルマリ・サルミネン。フィンランドの選手だった。サルミネンが持ち主であれば"メダル獲得者に対して副賞として贈られた懐中"という話にも矛盾はない。



ケース裏の細工は、ベルリン・オリンピックの公式エンブレム通り。




スローガンの「ich rufe die jugend der welt !(世界の若者に呼びかける!)」も正しい。

ただいくつか引っかかるのは、ナチスが面子をかけて開催したオリンピックで、そのゴールド・メダリストに銀ケースの懐中を贈るだろうか、贈るのなら18Kケースの懐中ではないかという疑念。

同様に、贈られた懐中がA.ランゲ&ゾーネの懐中グレードの中でも普及品レベルにあたる"DUFクォリティー”であることもちょっと不思議だ。

"ALS"と"DUF”という、A.ランゲ&ゾーネ懐中のクォリティーの違いや見分け方については、過去のブログにも書いたので、そちらを参照していただければ幸いである。
https://watch-media-online.com/blogs/3932/



プロバガンダ的な意味合いを考えても、金メダリストには最上級グレードである"ALS"クォリティーの懐中を贈るのではないかという疑念。

さて、ここまで勿体ぶって細かな項目を調査してきたが、まだ真贋を判断できる決定的な証拠には至ってはいない。
ではいよいよ決定的な証拠を見よう。

それが4枚目の裏蓋の画像である。
丸で囲った部分を見た瞬間に、これは残念と結論した。



これはどう見ても、干支足をハンダ止めした跡である。



つまりエンブレムの造形を別作して、本来の裏蓋に穴を開けて4点止めしたのちハンダで固定した跡なのだ。
本来であれば、無垢のケースにエングレーヴィングして製作されるはずの造形が、しかもオリンピックの副賞という国家の威信がかかった非常にハイクオリティな工芸がなされてしかるべき作品に、ハンダ止め(しかもそれを隠すような仕事もない)というのは、ナチス・ドイツとしても、A.ランゲ&ゾーネとしても、絶対にあり得ないのである。

従ってこの時計は、もともとは単なる銀ケースのDUF懐中時計だったものを、おそらく高額で販売することを狙った贋作者が、オリンピックのエンブレムをハンダで貼り付け、サルミネンの写真と、グラスヒュッテと書かれた木製の時計箱を探してひとつのセットにしたもの、と結論づけたのである。

はい。これにて、一件落着!!




個人ブログ時代は、こうした日常報告的な骨休め的文章を、テキトーというわけではないが、まぁ適宜に書いていたが、WATCH MEDIA ONLINEになってからは、ある程度ちゃんとしたものでないと、というプレッシャーみたいな気負いからか、控えていたところもある。

今後は、こういうコラム的な読物をかけるスペースがちょっとあってもいいかな、とも思っているのだが、どうでしょう?