CARL SUCHY & SÖHNE の歴史を辿って

 By : NOBLE STYLING GALLERY




今月より、当店にて取り扱いを開始した、オーストリア唯一のラグジュアリー・ウォッチ・ブランド、Carl Suchy & Söhne(カール・スッキー & ゾーネ)。時計の概要については、ニュースページや、CC Fanさんのレポートをご覧いただくとして、今回はそのルーツを探るお話です。



時計といえば、スイス、フランス、ドイツ、イギリスという国ははすぐ浮かんでくるでしょうが、オーストリアというのはあまりなじみがなく、「そんなブランドあったのですか ?」 と思われることも多いと思います。

そこで今回は、このブランドの持つ豊かな歴史を、年表形式でご紹介いたします。
その歴史とは、ドナウ君主制時代のオーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルク家を魅了し、そして、世紀末のウィーン知的階級の時計愛好家にとってもっとも重要であった伝説のブランドの物語であり、ファーストモデルWaltz No. 1のデザインの源泉となったユーゲントシュティルなど、当時の文化を紐解いていく物語でもあります。なお、このテキストはCarl Suchy & Söhneのページを日本語化したものです。

1796年  Carl Suchy(カール・スッキー)、プラハの歴史的中心地に生まれる。

 当時のプラハ中心地






1819年まで 
ドイツの有名なウォッチメーカー、Franz Lehner(フランツ・レーナー)のもとで、ウォッチメーカーの修行をする。

1821年  Carl Suchy、Josephine Kroupa(ジョセフィーヌ・クロウパ)とプラハで結婚する。

1822年  26歳になったSuchyは、プラハの中心地にショップをオープンする。技術的に優れていた彼のペンデュラム・クロックとウォール・クロックは瞬く間に成功を収める。

 プラハ中心地にオープンした
 ショップ




























1827年
  長男、Carl Suchy Junior(カール・スッキー ジュニア)が生まれる。

1830年  次男、Johann Anton(ヨハン・アントン - Hans)が生まれる。同じ年、将来のオーストリア皇帝となるFranz Joseph I(フランツ・  ヨーゼフ1世)も誕生する。

1832年  毎年、定期的に出品していたライプツィヒのトレードフェアではしばしば賞を受賞した。三男Anton Gottfried(アントン・ゴットフリート)が  生まれる。

1835年  Ferdinand I(フェルディナント1世)の戴冠式にあたり、プラハのロイヤルコートにクロックを設置する。

1838年  Suchyのビジネスは拡大し、従業員は35名にまで増えた。彼は、国際的な拡大を見せた最初のウォッチメーカーの一人である。

 1838年当時の工房







1841年  Suchyの末っ子、Emanuel Suchy(エマヌエル・スッキー)が生まれる。同じ年、オーストリアの有名な建築家であり都市計画者のOtto Wagner(オットー・ワーグナー)も生まれている。

1844年  Carl Suchy(カール・スッキー)は、「彼の作る時計の優雅さと技術的完璧性については、期待以上のものがある」として、初めての宮廷時計職人に任命され、長年にわたってその職を務めた。

1845年  Suchyの2人の息子、CarlHansは、有名なチェコのウォッチメーカー、Josef Kosek(ヨゼフ・コセック)のもとでの修行を終える。修行中の数年は、スイスの最高のウォッチメーカーとともに勉強していた。

1848年  オーストリア皇帝Franz Joseph I(フランツ・ヨーゼフ1世)戴冠式。

 フランツ・ヨーゼフ1世戴冠式








 フランツ・ヨーゼフ1世は、時間に正確な人物と言われていました。なぜなら、
   彼は、
Carl Suchy & Söhneのポケットウォッチを携えていたからです。










1849年  Suchyの息子たちが親のビジネスに加わり、Carl Suchy & Söhne(カール・スッキー & ゾーネ)と改名され、オーストリアではもっとも有名なクロック・ファクトリーとなる。

1853年  Carl Suchy Juniorが、Le Corbusier(ル・コルビジェ)の生誕地であるスイスのLa Chaux-de-Fonds(ラ・ショードフォン)にポケットウォッチ・  ファクトリーを設立する。ファクトリーでは、ファミリー・ビジネス用に供給するだけではなく、イギリスにも輸出されていた。

 Carl Suchy JuniorがLa Chaux-de-Fondsに設立したポケット・ウォッチ・ファクトリー






1858年  オーストリアの高級紳士服ブランドKnize(クニーシェ)が設立される。

1862年  ウィーンのアート史に大きな影響を与えることになる、アーティスト  Gustav Klimt(グスタフ・クリムト)、作家Arthur Schnitzler(アルトゥル・シュニッツラー)が生まれる。

 Gustav Klimt作「接吻」








1863年  Suchyの次男Hansが、ウィーンの中心地Rothenturmstraße 6(ローテントゥルム通り6番地)にワークショップを開設する。Johann Antonは、プラハのショップを引き継ぐ。彼もまた宮廷時計職人に任命される。


 当時のウィーン中心地
 Rothenturmstraße 6
 (ローテントゥルム
通り6番地)





























1865年
  ウィーンのRingstraße(リング通り)が開通。オーストリア初の馬車鉄道は、ウィーンのSchottentor(ショッテントール)と郊外のHernals(ヘルナルス)を結んだ。

1866年  カーペットメーカーEduard Haas(エドゥアルド・ハース)が、Carl Suchy & Söhneのショップのすぐ隣にウィーン初の百貨店をオープンする。

1866年  創業者Carl Suchy亡くなる(享年70歳)。末っ子Emanuelがプラハのショップを引き継ぐ。

1867年  Johann Strauß(ヨハン・シュトラウス)作、Blue Danube Waltz(美しく青きドナウ)がウィーンで初演。

1870年  有名な建築家、デザイナーであるAdolf Loos(アドルフ・ロース)とJosef Hoffmann(ヨーゼフ・ホフマン)が生まれる。

 Adolf Loos(アドルフ・ロース)
 ブランド復活のイベントは、彼が設計したLooshaus(ロースハウス)で開催されました。








1872年  Emanuel Suchy、プラハ初のボランティア消防隊を設立。

1879年  Carl Suchy Juniorは、Franz Joseph I(フランツ・ヨーゼフ1世)とその妻、Elizabeth(エリザベート)の結婚20周年を祝って、リングで開催された有名なマカルト行列に参加。Suchyは誇らしげに16世紀のウォッチメーカーを髣髴とさせる衣装を纏っていた。

 16世紀のウォッチメーカーの
 衣装を
纏ったCarl Suchy Junior
































1886年
  Sigmund Freud(ジーグムント・フロイト)がウィーンに鍛錬所を開設し、精神分析の方法を開発する。

1891年  ウィーンのカフェ文学として知られている「Young Vienna – Jung Wien」ムーブメントは、オーストリアとその周辺の文学運動を形作る、  ウィーンのカフェに集う芸術家、作家、知識人たちの集会や討論によって生まれた。Peter Altenberg(ペーター・アルテンベルク)、Arthur Schnitzler(アルトゥル・シュニッツラー)、Hugo von Hoffmansthal  (ユーゴ・フォン・ホフマンスタール)、Stefan Zweig(シュテファン・  ツヴァイク)らが、もっとも有名なメンバーである。

1894年  Emanuel Suchyは、プラハ消防隊に対する偉大な支持により、Franz Joseph Iより権威ある帝国勲章Knight’s Crossを授与される。

1895年  当時もっとも影響力のある建築家の一人であったOtto Wagner(オットー・ヴァグナー)は、装飾的な歴史主義の終わりを宣言する。そしてモダニズム、哲学、文学、音楽、芸術、デザイン、建築での新しいムーブメント、  Jugendstil(ユーゲントシュティル)の時代が始まる。

1898年  Hans Suchy亡くなる。彼の未亡人Therese(テレーゼ)は、ウィーンのRothenturmstraße(ローテントゥルム通り)のショップを引き継ぐ。彼女も宮廷時計職人の栄誉に浴した。

1907年  Adolph Cervinka(アドルフ・チェルヴィンカ)が、プラハのCarl Suchy & Söhneの新しいオーナーとなる。ショップは、市の中心地Na Příkopě(ナ・プシーコペ)という特別な場所に移転する。

1918年  オーストリア・ハンガリー二重帝国の終焉とともにCarl Suchy & Söhne も休眠状態となる。

2016年  Carl Suchy & Söhne の復活 。Looshausにて復活イベントを開催。







たまには、このようなブランドの背景を探りながら、その作品を楽しむ。というのも良いことかもしれません。