カーステン フレスドルフ スピログラフ 工芸的なアプローチによる天文台クロノメーター ひげゼンマイ・テンワ編

 By : CC Fan
2019年8月23日:温度補償についての説明を修正しました。

ワークショップ訪問レポート
を掲載したカーステン フレスドルフ(Karsten Fräßdorf)の高慣性モーメント温度補正テンワを搭載したトゥールビヨン超高精度機、スピログラフ スポーツ(Spirograph Sport)とスピログラフ クラシック(Spirograph Classic)。

今回は特徴的なひげゼンマイとテンワの詳細を追い、彼の挑発的な”内側をケアしていない巻き上げひげはただのマーケティングに過ぎない”という発言の真意や、”ひげゼンマイは女王バチ(Queen Bee)または歌姫(Diva)”であるという謎めいた比喩を解き明かします。

修復出身の彼の理念として、”200年前の優れた時計は現在でも修復され、動き続けている、私の時計も200年後に時計師が修復できるような構成にしたい”というものがあり、全体的に”直せる”ことを重視した設計になっています。

ひげゼンマイ自体はプレシジョン・エンジニアリング社のPE4000というチタン・ニオブ系非磁性ひげゼンマイを使っているそうです。





これは3つ入り、小ロットでも購入でき、独立系にも優しい…ということのようです。
鉄を含まない非磁性素材なので、磁気の影響を受けづらく、非磁性素材のテンワと合わせて耐磁時計として現代の磁気があふれている生活に対応する実用機として作られています。

見ての通り、ひげゼンマイはいかにもゼンマイという曲線(アルキメデス曲線)で納品されていますが、これにカーブ付けを行い、巻き上げひげゼンマイを作るところからスタートします。
彼が例に挙げたロレックスのように数を作っているメーカーであれば、この状態から機械による自動化により均一な巻き上げひげを作り、検査も自動化することができますが、彼の生産規模ではそんなことは不可能、カーブ付けは手作業で行い、そのあとの検査も人手で行います。



これがカーブ付けが終わったひげゼンマイのCAD図。
外側が巻き上げなのは”当たり前”だそうですが、それに加え内側もアルキメデス曲線を断ち切って溶接するのではなく、カーブ付けを行った ”double curved” ひげゼンマイ、もちろん緩急針がひげゼンマイの動きを阻害しないフリースプラング仕様です。
内側のカーブはグロスマン理論、外側のカーブはフィリップス理論(100番)によって決まる形状とのこと。

また取り付けを溶接で行うと熱によるストレスで特性が変わってしまうことを危惧し、ゼンマイの端はクリップで挟んで固定したうえでシラックで固定する仕様になっています。
この方法は溶接とは違い取り外すことができるので、遠い未来にひげゼンマイそのものすら交換することも想定しています。

彼が強いこだわりを持っているのは巻き上げひげゼンマイとして目立つ外側よりもむしろ内側で、曰く、ラフな例えをすると外側を巻き上げにしたとしてもその効果は外側の1/2にしか現れず、内側は重心が移動してしまう、逆に内側を適切な終端カーブにすれば内側1/2の重心移動を抑えることができる…なのでひげゼンマイ全体の重心移動を抑えるのであれば、両方やるのがベストであり、片方だけやるのであればより激しく動き、影響が大きい内側を優先してやるべき、なのに”巻き上げひげ”と称する設計は目立つ外側をやって内側はほったらかしというのがある…というのが”内側をケアしていない巻き上げひげはただのマーケティングに過ぎない”という発言に繋がります。
正直、挑発的な言い方で争いを生みそうではありますが、私は主張自体には納得できると思いました。

定義したポイントに重なるようにひげゼンマイを曲げていき、終端付けを行いますが、これは手作業なので理論通りというわけにはいきません、理論自体も厳密解ではなく近似が入っているところはあるでしょうし、ひげゼンマイ素材自体のばらつきもありますし、さらには作業のばらつきもあります。
大量生産で数を作るのではなく、少数の超高精度機を作りたい彼の発想は”均一にするのはあきらめ、それぞれの個性を最大限に活かすようにする”という考え方です。



カーブ付けを行ったひげゼンマイはランニング試験用のムーブメントに搭載され、まずは3か月という長期間にわたって動かし続けて”慣らし”を行い、カーブ付けの作業で加わったストレスを抜きながら、初期不良をはじきます。
この時に、PCから制御されるWitschiの姿勢差も測定できる測定器でパワーリザーブ残量・姿勢を変えながら数日にわたって精度の変化を測定し、ひげゼンマイ自体の”キャラクター”を掴むそうです。

この慣らしを行って特性を掴むというアプローチは市販・量産を前提とせず、とにかく精度のみを追求して技術力をアピールした天文台クロノメーターコンテスト機で行われていたのと同じ手法、量産と同じ方法で精度を出すのは不可能だけど、少数なりのやり方がある…という意味でむしろ工芸的ではないかと感じました。
あまり言い方ではないかもしれませんが、”愚直”で”泥臭く”理想を追う…というのはグッときます。

天文台クロノメーターは精度だけでいえば現在のCOSCどころか、クオーツに迫っていたものもあったと考えれば、この方法は数が作れないこと、手間がかかりすぎる以外は素晴らしい方法ではないでしょうか。

さて、このような方法で作られた宝石のようなひげゼンマイ、これはまさに時計の心臓部ですが、ストレスを与えず、持てる能力をフルに発揮するように動かさなければその実力を発揮することはできません。
”ひげゼンマイは女王バチ(Queen Bee)または歌姫(Diva)”というフレーズは、ストレスなく動いてもらうための考え方を端的に表しています。

ミツバチ(養蜂)はラ・ショー=ド=フォンの象徴の一つであり、彼のムーブメントの見えないところにもミツバチの意匠が記されています。



ミツバチは集団の中で役割が決まっている社会性昆虫であり、卵を産み次世代を育てる女王バチを活かすために女王以外のメスである働きバチとオスバチが奉仕するという生態です。
これになぞらえ、時計というハチの巣を構成するハチ(時計の部品)は全て女王バチたるひげゼンマイを最適な条件で動かすために奉仕するべき…という考え方です。
歌姫(Diva)もほぼ同じ考え方で、歌姫の歌声を活かすためにオーケストラ全体が支える…ということを表しており、どちらもひげゼンマイが主、それ以外が従という関係です。

ひげゼンマイの”相棒”と言えばもちろんテンワですが、これもひげゼンマイにテンワ側が最大限合わせるというひげゼンマイが主、テンワが従という考え方で、テンワ側でひげゼンマイの個性に合わせるため、調整箇所が多くなっています。



一直線の恒温設定部にZ状の温度補償部が組み合わさった構造になっています。

端が見切れてしまっていますが、中央のIの字状の部分が温度一定(恒温時)の歩度を調整する部分で、チラネジを出し入れすることでテンワ自体の慣性モーメントを変化させ、ひげゼンマイとのマッチングを取ります。
あくまでひげゼンマイが主でマッチングして既定の周波数で振動することが重要…という考え方であり、このテンワ自体の慣性モーメント値はひげゼンマイにあわせて変化します。

Z状の温度補償部は、テンワのスポーク(4番)と異なる素材で作られた17番のブレードが組み合わされています。
素材の差により温度に対する膨張率(線膨張率)が異なるため、温度変化によって長さの差が変化し、19番の取り付けねじを経由して15番のアームを開いたり閉じたりさせることで、慣性モーメントを変化させます。

PE4000は温度によって弾性率の変化が”少ない”恒弾性素材と呼ばれる材料ですが、”少ない”が”ゼロではない”のでここまでやっているわけです。

この機構は、異種金属の膨張率の差を使って温度に対する補正を行っていた古典の機構、バイメタル切りテンワの現代版と理解しました。
バイメタル切りテンワは鋳造と切削で作られ、金属同士は引っ付いていていますが、この機構は組み立て・分解可能で組み合わせる金属の種類も変えることができます。
また、設計上のポイントとしてはブレード・錘ネジがすべて円周上に配置され、”効き”を調整するために付け替えたとしても、温度が変化しない場合の慣性モーメントは変化しないようになっており、恒温設定と温度補償の調整をある程度独立に行える直交性を確保しています。



これは彼が書いた温度補償の重要性を示す式。
0.6s/(℃・day)の温度特性を持っている場合、8℃(寒い室内に放置)と38℃(腕に着けた状態)で30℃の温度変化があるとすると、30℃×0.6s/(℃・day)=18s/dayの誤差に繋がり、恒温状態で高精度(-2~ 4s/day)に調整されていたとしても温度による変化の方が大きくなる…ということ。



テンワ直径は16mmという大型サイズ。
慣性モーメントの設計値は60~70mg・cm^2程度とのこと。
偏心錘を使ったマスロットよりもネジが出入りする分調整範囲は広いようです。



全ての部品はネジとピンによって組み立てる構造になっており、溶接は行われていません。
分解ができれば修復ができる…ということと理解しました。

このテンワはスピログラフ クラシック用、スピログラフ スポーツではスポーツの名前の通りさらに激しい動きに対応するべく慣性モーメントを増加させました。



基本的なシステムは一緒ですが、18番のウェイトが追加され、80~90mg・cm^2程度の設定値になっています。
ウエイトは固定値であり調整には直接関係しないので、前回掲載したようにルミノバやジェムセッティングと言った追加要素を加えることもできます。

この図ではひげゼンマイの取り付け部もあらわされていますが、内側はクリップ、外側もクリップしたプレートをひげ持ちにネジ止め、と分解することを前提とした作りです。

この図面以外にもテンワのバリエーションはあるようで、温度補償部がなく、追加のウェイトはあるタイプとか…



チラネジが青焼きとか…



考えようによってはテンワ自体にパーソナライゼーションができるという驚異のサービス…

理論の裏付けはもちろんあるでしょうが、最後は泥臭くもある徹底した慣らしと選別によって優れた性能を得る…というアプローチは天文台クロノメーター的でグッときます。
本当はムーブメント全体まで見ようと思っていましたが、長くなったので一度区切らせてください。

まずは挑発的な部分の説明ということで…

関連 Web Site

Montres KF
https://montres-kf.com/

WCP(Watch Connaisseur Project)
https://www.wcp.swiss/

Noble Styling
http://noblestyling.com/