無形文化遺産となったスイスの時計産業のルーツを探る(第二話)~終わらないユグノーへの迫害とスイス時計産業の更なる発展~ by L’Hiro

 By : Guest Blog




無形文化遺産となったスイスの時計産業のルーツを探る(第二話)
~終わらないユグノーへの迫害とスイス時計産業の更なる発展~ by L’Hiro



前回はカルヴァン派であるフランスのユグノーの時計職人の技と、ジュネーヴで当時の伝統産業だった金銀細工職人の技との融合で、スイスで時計産業が芽生えたことを説明しました。今回はカトリックの終わらない迫害によるユグノーの引き続きのジュネーヴへの亡命を契機にした更なるスイスの時計産業の発展を見ていきます。


◆ユグノーの第二期亡命
さて、16世紀始めから始まったカトリックとプロテスタントであるユグノーとの戦いは、その後、フランス国王のアンリ四世により1598年にナントの勅令で一定の制限下での信教の自由が認められつかの間の停戦となり、ユグノーへの迫害も下火となりました。しかしながら、時代と共に再び迫害が徐々に増え出し、1685年にルイ十四世がフォンテヌブローの勅令でナントの勅令を廃止すると迫害が激化します。そして、第二期の大きなユグノーの亡命の波が始まります。特に1677年から始まった“ドラゴナート”といわれた竜騎兵の襲撃によるユグノーに対する、カトリックへの改宗強要は凄まじいもので、殺人と婦女暴行以外の全てのことが黙認され、しばしばその条件も無視されカトリックへの改宗が強要されました。3人のユグノーがドラゴナートの犠牲になれば、別の300人が改宗したといわれ、1年間に約4万人弱のユグノーがカトリックへ改宗したこともありました 。


●フランスのドラゴナード(Dragonnades in Frankrijk)、年代1681-1685、作者:不明(anonymous)、エッチング、RIJKSMUSEUM(アムステルダム国立美術館)所蔵


こうしてナントの勅令廃止前後の1682年から1720年の約40年間で、約6万人のユグノーが国境を越え、ジュネーヴやスイス諸邦に押し寄せました。約2万5千人がそこに居住し、その他の者はさらに他の地域へ移動しました。ナントの勅令廃止後の8年後の1693年7月の一時点では、ジュネーヴの住人のうち約五分の一(1万6,511人の住人のうち3,300人)がユグノーだったという記録があります 。


●1570年から1760年にかけてのユグノー亡命の流れ
 

この第二期のユグノーの亡命には多くの時計職人が含まれていました。ジュネーヴでは1685年のナントの勅令廃止時には、100人の時計職人の親方と300人の労働者しか存在しておらず、年間5千個の懐中時計しか生産していませんでした。しかし、その後、1725年には男性就業人口の五分の一が時計産業関連に関わる ようになり、ナントの勅令廃止後の100年後にはジュネーヴだけでも、6,000人の労働者が毎年5万個以上の懐中時計を製造 するようになりました。また、ジュネーヴは市政への参政権の有無で住民層を分けるという差別がありましたが、フランスから亡命した時計職人は地位が高く、参政権がある確かな身分 を持つことが許されていました。

このようにして、ジュネーヴはフランス語を話すプロテスタントであるユグノーの亡命地 となりました。しかし、あまりにも多くのユグノーを歓迎してきたので、徐々に受け入れが難しくなり、ジュネーヴ当局は亡命者が確かな身分を持つことに制限 を課すようになります。当然、時計職人もジュネーヴで安住することが難しくなってしまい、致し方なく、時計職人だったユグノーはヌーシャテルを経てジュラ山脈の南端部一帯へ移住 していきます。

歴史的にジュラ山脈の雪に閉ざされる冬は6ヶ月以上も続くため点在する農家は外界と孤立し、各々大家族でまとまって暮らさざるを得ませんでした。その上、石の多い急斜面のやせた土地は耕すのが困難で、穀類は購入せざるを得ませんでした。牧畜や林業の他に糸を紡いでレース製品や衣類を手作りして販売してもなお、現金収入を得るための副業が必要だったため冬は出稼ぎに出ていました。しかし、後述する時計職人のダニエル・リシャールがル・ロックル(Le Locle)で外国旅行帰りの人が持ち込んだ時計を修理し、その構造を習得したことがきっかけで、冬の出稼ぎを中止して時計作りという新しい副業に従事 していきます。また、ジュラ山脈一帯は人里離れていて、租税がなく、いかなる産業も自由に営業できたことも、時計産業がこの地で発展していく要因となります。

このジュラ山脈の時計作りが盛んな地域はジュネーブから北に峠道を約60㎞行ったところにあります。この一帯は「ヴァレ・ド・ジュウ(ジュウ渓谷/Vallée de Joux)」といわれ山麓の静かな町ですが、今では「ウォッチ・ヴァレー」の別名でも知られる機械式時計の聖地となっています。


●ジュラ地方とその近辺の時計産業に関わる地域
 

◆ジュウ渓谷で活躍した時計職人
このジュウ渓谷で時計製造を広めたのは、レ・ブレッセル(Les Bressel)という、ラ・ショー・ドゥ・フォン(La Chaux-de-Fonds)とル・ロックル(Le Locle)の間の村で1665年に生まれたダニエル・ジャンリシャール(Daniel JeanRichard)と言われています。彼は、鍛冶屋の見習いをしていた15歳のときに、イギリス人のピーターと名乗る馬商(馬や家畜の仲買人)が持ち込んだ故障したバージ・フュージー(verge fusee)式の懐中時計の修理をします。鍛冶屋であった彼は時計製作の工具を自分で作り、その翌年に同じ時計を独学で作り上げたという逸話が残っています。彼はジュラの地に完全分業体制を確立させ生産を拡大し、時計学校も設立し同地では有名な人物です。彼は、家内制手工業により外出できない冬の間に時計の特殊なパーツを分業で製造する、いわゆる「エタブリィサージュ(Établissage)」の仕組みの前身 を作り出しました。

ダニエル・ジャンリシャールの銅像は現在も1868年に建てられたル・ロックルの旧時計学校の前にあります。また、ラ・ショー・ドゥ・フォン駅のすぐそばにはダニエル・ジャンリシャール通り(Rue Daniel-JeanRichard)という通りも現存しています。それと平行してジャケ・ドロー通り(Rue Jaquet-Droz)が走っているのは、さすが時計の町らしいです。


●ル・ロックルの旧時計学校の前にあるダニエル・ジャンリシャールの銅像


●ル・ロックルの旧時計学校

ダニエル・ジャンリシャールの時計は1960年代まで製造されていましたが、1980年台にブランド名のみレマニアに売却。1986年にジラール・ペルゴーの社長だった今は亡き元レーサーのルイジ・マカルーソがレマニアからブランド名を取得し1994年に復活させました。現在はグッチやバレンシアガを保有しているPPR(現ケリング社)の傘下に属しています。


●JEANRICHARD、アクアスコープ、自動巻、ステンレススティール、ラバーストラップ、44.0mm

ダニエル・ジャンリシャールの活躍以降、今でも老舗と言われているスイスの名だたる時計ブランドが、このジュラ山脈南端のジュウ渓谷で次々と産声を上げていきます。

1735年、ジュウ渓谷の小さな村ヴィルレ(Villeret)で、ジャン・ジャック・ブランパン(Jehan Jacques Blancpain)が工房を開きました。これが、世界でも最も古い時計ブランド、ブランパンの始まりです。1815年には、ジャン・ジャックの曾孫であるフレデリック・ルイ・ブランパン(Frédéric-Louis Blancpain)によって、伝統的な手作業の工房を量産可能な製造方法へと近代化を進め、脱進機をシリンダー型からアンクル型に替えることで、時計製造業界の変革に多大な影響をもたらしました。

1738年、ピエール・ジャケ・ドロー(Pierre Jaquet-Droz)はラ・ショー・ド・フォンに工房を開きました。1758年、彼は、自身の時計の技術をスペインに売り込むためマドリッドに旅立ちます。見事なオートマタ(automata/からくり人形)が連動する置き時計は、国王フェルナンド6世に気に入られ、彼は王室御用達時計師として認められます。また、息子のアンリ・ルイ(Henri-Louis Jaquet-Droz)が製作した3体のオートマタはヨーロッパ中の評判となり、各国の宮廷に招待されるまでになりました。

1747年には、アブラアン・ルイ・ブレゲ(Abraham-Louis Breguet)が誕生し生まれ育ったヌーシャテルを10代で離れ、時計職人としての修業を積むためヴェルサイユ、パリに赴きます。1775年、彼は大修道院長のジョゼフ-フランソワ・マリーの助力によりパリのシテ島に時計工房を設立したことは時計好きの方ならご存知でしょう。

1770年、ル・ロックルの時計師アブラアン・ルイ・ペルレ(Abraham-Louis Perrelet)は、回転する錘(ローター)で自動的に時計のゼンマイを巻き上げる機構「montre à secousses(モントル・ア・スクース)」を発明しました。普段、ポケットを収めている懐中時計には不向きでしたが、この発明は今の自動巻き腕時計に応用されることになります。1815年には、孫のルイ・フレデリック・ペルレ(Louis Frédéric Perrelet)が、その8年後のパリ万博で銀賞に輝いた振り子式天文時計を発明し、フランス国王ルイ18世が愛用したことから、ペルレは王室御用達の時計師としての地位を得ることとなりました。

このように今でも著名なブランドの多くの時計職人がこの時代にジュウ渓谷で活躍し始めます。一方、その多くの時計職人がユグノーとしてフランスから逃亡したわけですから、フランスの経済はこの時期から急激に衰退していきます。






●メーカー:フランソワ・チャペック(François Czapek)、ジュネーヴ製、製作1850年~1860年、ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵
パテック・フィリップ設立の立役者の一人であるJean-Adrien Philippe(ジャン-アドリアン・フィリップ)が1845年に発明した巻き上げ式のリューズ付き懐中時計。それまでの懐中時計はゼンマイを鍵で巻き上げて動かしていたもの。エナメル装飾の人物像はロシア皇帝のニコラス1世。


◆ユグノーの亡命によるフランス経済の衰退
以上がユグノーの受け入れ側であるジュネーヴの状況ですが、一方のフランスでは、人口の約2,000万人のうち、カトリックへの改宗を望まないユグノーの数は1562年に約200万人、1598年に約125万人、1670年に約90万人と急激に減っていきます。そして、1685年のナントの勅令廃止後には、実に短期間に約20万人が亡命します。既述のとおり、ユグノーはフランスの工業、商業、金融業において確かな地位を築いていましたから、その逃亡によって影響を受けなかった経済分野 はありませんでした。

例えば、当時のフランスにおいて時計産業が栄えていた地域はブロワ(Blois)やパリ(Paris)でしたが、ナントの勅令廃止後に時計職人の数が急減した記録が残っています。ブロワでは、1685年以前における時計職人のギルドの審議に38人の親方職人がいつも参加していましたが、1686年には17人しか出席していませんでしたし、パリでも10人の時計職人が亡命 しました。その他の産業でも、例えば、絹織物工業で有名なフランス中部のトゥール(Tours)の絹織物ギルドの記録には、1669年に271人の職人がいたのが、1730年には18人 に急減した様子が残っています。フランスに残った多くの職人たちはカトリックへ改宗したと思われます。


◆キャビノチェによって時計産業が栄えたジュネーヴ
このようにフランスの時計産業はユグノーの亡命によって大打撃を受けますが、スイスではその後もジュネーヴを中心に時計産業が右肩上がりに栄えていきます。そして、ジュネーヴでは、17世紀末頃から時計職人が自宅の屋根裏部屋(Cabinet/キャビネ)で時計を作るようになります。ご存じのとおり時計作りは非常に細かい作業ですので、常に明るい仕事場が必要です。したがいまして、太陽光が一番長い間入る建物のいちばん上の屋根裏部屋の住人となったことが由来で、時計職人はキャビノチェ(Cabinotier)と呼ばれるようになります。

ジュネーヴのキャビノチェは加工前の部品や半加工製品を市外の専門業者に任せ、組み立てや仕上げのような繊細で実入りの良い仕事に集中していました。ジュネーヴ市内に時計の組み立てや仕上げの仕事を残すことで「ジュネーヴ製」という伝統的な価値と量産性を両立していたのでしょう。そして、ジュネーヴの時計ギルドはジュネーヴ市内で組み立てて仕上げた時計を「ジュネーヴ製」と称して価値を高め、「半加工製品の市外から市内への持ち込みが発覚した場合は、100フロランの罰金を科す」というような政令を布告してキャビノチェの地位を守りました。

このような当時の分業システムは、今のスイス時計産業の特色となる「エタブリィサージュ(Établissage)」の原型です。エタブリィサージュとは、歯車などを上下で挟む地板と受けの半加工製品であるエボーシュ(Ébauche)、歯車、テンプ、文字板や針などを専門の工場から購入し、自社工場と複数の下請けを使い、部品同士の調整、仕上げを行う分業システムです。部品の手配から完成品出荷までを請け負う時計メーカーはエタブリィスール(Établisseur)と呼ばれ、その中には問屋業務に集中して製作工程の全てを下請けに委託する者もいました。


●題名:18世紀ジュネーヴの時計職人(キャビノチェ)のアトリエ、作者:クリストフ・フランソワ・フォン・ズィグレ(Christophe Francois von Ziegler)、油絵


●現在のキャビノチェ、Musée Atelier Audemars Piguet(オーデマ・ピゲ博物館)

 1827年のジュネーヴの人名録によると少なくとも377人のキャビノチェの親方が存在し、うち225人がサン・ジェルヴェ地区(Saint-Gervais district)に、そして、うち152人がレマン湖左岸にアトリエを構えていました。そして、ローヌ通り(La rue du Rhône)沿いは時計ビジネスの中心 となりました。今でもローヌ通り沿いには多くの時計や宝飾品ブランドの店があり、パテック・フィリップの本店やショパールの本店などがあります。
2回に渡りましてスイスで時計産業が芽生えた経緯をお話ししてきましたが、いつの日かコロナ禍が収まった日には、皆さんも上述したジェネーヴからジュラ渓谷の街を訪れていただき、現地に根付いている生の時計産業の現状を是非ご視察されるとよいでしょう。


● ローヌ通りのパテック・フィリップ本店 


【参考文献】
[i] 木崎喜代治著、『信仰の運命』 p.109(株式会社 岩波書店、1997年9月22日第1版発行)
[ii]金哲雄著, 『ユグノーの経済史的研究』pp.226-227, (株式会社ミネルヴァ書房、初版第1版発行:2003年3月15日)
[iii]大川四郎/岡村民夫編『国際都市ジュネーブの歴史』 p.290(発行所:株式会社昭和堂、2018年6月30日初版第1版発行)
[iv]金哲雄著, 『ユグノーの経済史的研究』pp.232, (株式会社ミネルヴァ書房、初版第1版発行:2003年3月15日)
[v]http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1130/1/GAKUEN-132-2.pdf、p.38

[vi]Mandrou R., «Les Français hors de France aux XVIe et XVIIe siècles », dans Annales ESC, n°4,1959,p.662-675.
[vii]「Une frontière transcendée par l’horlogerie: l’Arc jurassien franco‐suisse(XVIIIe et XIXe siècles)」『hal.archives-ouvertes.fr』
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-00974038/document(閲覧日2021/3/1) https://www.jstage.jst.go.jp/article/micromechatronics/51/197/51_KJ00005706165/_pdf/-char/ja
[viii]https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-00974038/document p3

[ix]https://core.ac.uk/download/pdf/291349861.pdf, p.246
[x]http://archive.horlogerie-suisse.com/marques/jeanrichard.html https://www.pocketwatchesuk.com/blog/n25728hdwdyb5chxf58d8j6lwdpb29
[xi]金哲雄著, 『ユグノーの経済史的研究』p.104, (株式会社ミネルヴァ書房、初版第1版発行:2003年3月15日)
[xii]金哲雄著, 『ユグノーの経済史的研究』p.131, (株式会社ミネルヴァ書房、初版第1版発行:2003年3月15日)
[xiii]金哲雄著, 『ユグノーの経済史的研究』p.114, (株式会社ミネルヴァ書房、初版第1版発行:2003年3月15日)
[xiv]https://www.jstage.jst.go.jp/article/micromechatronics/61/217/61_37/_pdf/-char/ja
[xv]https://www.lebendige-traditionen.ch/dam/tradition/de/dokumente/tradition/ge/la_fabrique.pdf.download.pdf/la_fabrique.pd