今年 生誕60周年を迎える「コスモグラフ・デイトナ」について by L’Hiro

 By : Guest Blog

ロレックスとパテック・フィリップ。この二つの時計ブランドは違った次元での機械式腕時計の最高峰です。パテック・フィリップが伝統的工芸品の最高峰と例えれば、ロレックスは近代工業製品の最高峰です。もっと抽象化すれば、超芸術的な時計と超実用的な時計の違いでしょうか。ただ、どちらもトップクラスの時計ですが、属する次元が違うので決して比べることはできません。

その超実用的な時計、例えれば、人類の叡智を尽くし見えない自然な時の流れを可視化し、正確性や耐久性において最高峰の時計を作り続けているロレックス。今回はそのブランドの顔である"コスモグラフ・デイトナ(以下、デイトナ)"について語りたいと思います。


ロレックス唯一のクロノグラフであるデイトナは1963年に誕生しました。今年はこのデイトナ生誕60周年を迎えます。故に、毎年新作が発表される4月には、何かがあるのではないかと思いを馳せてしまう記念すべき年です。このデイトナはいまや時計そのものよりも、その”デイトナ”という名前だけが独り歩きしているカリスマ時計です。レースのために生まれた時計、ロレックスの看板時計、キング・オブ・クロノグラフなど、色々なイメージが飛び交っていますが、デイトナ・マラソンと称されるように今や定価で入手するのはほぼ困難な時計になっています。ただ、残念なのはその中身の質の高さを知る人たちが、とても少ないことです。特に、ムーブメントの革新性、洗練性、堅牢性は特筆に値しますが、あまり知られていません。



今回は、その魅力のうち発明に値するデイトナのムーブメントである究極の実用性を実現したキャリバー4130の特徴についてお話しします。キャリバー4130は、2000年に、Marc SCHMIDT(マルク・シュミット)とMichel SINTES(ミッシェル・サンテ)の2人で開発されたロレックス社初の自社開発のクロノグラフムーブメントです。それまで、ゼニス社のエル・プリメロを改良したムーブメントを使っていました。ロレックスはスケルトンモデルを出さないこともあり、秘匿性が高く、時計修理の方々しかその良さが分からないのですが、その奥深さは計り知れません。まずは、このキャリバー4130をよく知るために、このムーブメントが属するクロノグラフという時計を深掘りしましょう。



クロノグラフとはストップウォッチ機能を持った時計のことです。
通常、機械式時計はゼンマイを巻き上げることによっていつも動いている、時、分、秒の3つの針を動かす時間用の輪列(歯車の集まり)が必ずあります。機械式クロノグラフには、この時間用の輪列に加えて、ストップウォッチ用のクロノグラフ秒針とその動いた時間を記録する積算計を動かす、別の輪列があります。指で2時位置にあるスイッチを押すとストップウォッチ用の輪列がいつも動いている時間用の輪列に、動力伝達装置(以下、クラッチ)でつながり、1つの大きな輪列になることでクロノグラフ秒針とその積算計が動き出します。

次にクラッチの種類を深掘りします。通常、そのクラッチには時間用の輪列の一つである秒針がついている四番車と、ストップウォッチ用の輪列のクロノグラフ歯車が、遊動車(=歯車)を介して水平に噛み合う“水平クラッチ”と、垂直な同軸上でディスクが重なり連動する“垂直クラッチ“に分かれます。

水平クラッチは”水平“という言葉どおり、クラッチの仕組みが水平に並んでいるため、歯車、レバー、機械の形、磨きや面取りが目の当たりに出来ます。したがって、マニュファクチュールを語る時計ブランドは、ムーブメントの輪列を最大限に美しく見せられる水平クラッチを採用する傾向にあります。個別銘柄でいうと、A. LANGE & SÖHNEのダトグラフやZENITHのエル・プリメロ、OMEGAのスピードマスターなどに採用されています。ただ、水平クラッチは四番車にいつもつながっている遊動車という歯車の歯が、水平方向にクロノグラフ秒針の歯車とのかみ合わせでクロノグラフ秒針を動かすので、針飛びという現象が起きます。針飛びとは、歯車の歯と歯の噛み合わせの際に歯先のどこに落ちるかによってクロノグラフ秒針が前後にずれる現象です。もし、クロノグラフ車の歯数が200枚だったとすると、その歯の間隔は0.3秒表示の角度に相当(60秒÷200)するので、最大0.3秒前後のズレが生じる可能性があります。たまに、単純な歯の噛み合いでは説明がつかない1秒近い針飛びを起こすこともあります。針飛びは、たとえわずかでも、1秒の何分の1を測るクロノグラフでは切実な問題です。

その点、”垂直クラッチ”はクラッチが歯車ではなく、二つのディスクがぺったんと重なり合う方式なので針飛びの問題が全くありません。つまり、実用的には垂直クラッチより垂直クラッチに軍配があがるということです。超実用時計を作るロレックスらしく、デイトナのムーブメントであるキャリバー4130は後者の“垂直クラッチ”を取り入れています。更に、現在のキャリバー4130は、LIGA加工という特殊な工法で作られたクロノグラフ歯車のおかげで、時計の外観美、実用性、針の動きの滑らかさを向上させています。 ロレックスはキャリバーの中身を少しづつ改良しており、今も進化し続けています。したがって、同じキャリバーでも年代によって、搭載するパーツが異なるケースがあります。このLIGA加工のクロノグラフ歯車は、2007年にキャリバー4130に搭載されました。


●キャリバー4130の垂直クラッチ
ロレックス社サイトより → https://www.rolex.com/ja/watches/cosmograph-daytona.html 


LIGA加工とは、従来の工法では製造できなかった微細な部品や複雑な形状の部品を製造できる技術です。正式名称は各工程のドイツ語の頭文字をとってLIGA(Lithograph Galvanoformung und Abformung)と名付けられています。1980年代にドイツのカールスルーエ原子核研究所で開発された技術で、セイコーがガンギ車やアンクルを作る技術として取り入れているMEMS(Micro Electro Mechanical Systems)技術のうちの一つとなっています。

この加工は写真の現像に似ていて、ある樹脂の上に歯車の形が描かれたマスクを置いて、そこに光を当てます。その後、樹脂を薬品につけると光が当たった部分だけが溶けて、歯車の形に沿った型ができます。その型に歯車用の素材を流し込むと歯車の原型ができる仕組みです。ご興味がある方は、参考動画[*1]をご覧ください。キャリバー4130では、このLIGA加工で作られたクロノグラフ歯車を使用しており、大きく分けると3つの点において秀逸さを極めています。 
 

一つ目は時計の縦方向の薄さです。
既述のとおり、“垂直クラッチ”は実用的なのですが、欠点は、垂直方向に重なる2つのディスクを持つ垂直クラッチ、時針を動かす二番車、秒針を動かす四番車やクロノグラフ歯車が中央に集中しているため、時計が縦に厚くなってしまうことです。しかし、キャリバー4130は四番車を6時位置にずらし、垂直クラッチを中央のクロノグラフ針と四番車の間にずらすことで、ロレックス三大発明の一つであるよく巻き上がる自動巻きを中央に携えても、縦の厚さを12.5ミリに薄くすることに成功しました。これを可能にしたのがLIGA加工によるクロノグラフ歯車です。

 
●垂直クラッチの位置(左:キャリバー4130、右:一般的なムーブメント)
https://watchesbysjx.com/2020/11/rolex-daytona-movement-4130-liga.html のサイトより

 
通常、垂直クラッチでは四番車とクロノグラフ歯車が中央の同軸上にあるため、クラッチがかみ合うときに針飛びは絶対に起こらないことはすでに説明しました。しかし、キャリバー4130では、四番車とクロノグラフ歯車が同軸上にないため、針飛びが起こる原因となる“歯車“が必要となりました。この針飛びをなくすために開発されたのが、LIGA加工のクロノグラフ歯車です。この歯車は歯先がバネのようにたわむように設計されているため、歯と歯のかみ合わせによる針飛びが極限まで減少します。このLIGA加工の歯車によって、時計の王道である二番車を中央に位置させながらも、時計の縦の厚さを12.5ミリという薄さを実現できたのです。


●LIGA加工のクロノグラフ歯車(シルバー歯車部分)
ロレックス社サイトより → https://www.rolex.com/ja/about-rolex-watches/movements.html 


2つ目は耐久性の向上です。
クロノグラフには、垂直クラッチと水平クラッチに限らず、クロノグラフ歯車とクロノグラフ針の接続部分にフリクションスプリングというバネを取り付け、ストップウォッチ作動時に長いクロノグラフ針がふらつく針ブレを防いでいます。しかし、一方で、フリクションスプリングはクロノグラフ歯車に弱いテンションをかけるため摩擦が起き、パーツの劣化につながるため一定の期間が経過するとパーツの調整や交換が必要になります。しかし、LIGA加工のクロノグラフ歯車を用いることで、キャリバー4130にはフリクションスプリングが必要なくなりました。フリクションスプリングの弱いテンションが、LIGA加工による歯車の歯先のバネに代替されることになり、フリクションスプリングがなくても長いクロノグラフ針の小気味よい起動が保たれることになりました。[*2]




3つ目は、クロノグラフ針の流れるように滑らかな動きです。
通常の歯車には、歯と歯がかみ合う部分にわずかなバックラッシュ(=隙間)がないと二つのかみ合った歯車の歯と歯は、それぞれの歯の両側でぴったりくっついてしまい、滑らかに回転できません。まったく動かなくなってしまうことも起こり得ます。適度なバックラッシュがあることによって、歯車はなめらかに回るのです。しかし一方で、このバックラッシュが、針の運びに微妙なズレを生み出してしまう原因となっていました。この問題を解決したのが、キャリバー4130のLIGA加工で作られた歯車です。この歯車は、各歯車の歯の中央部に隙間を持たせ、歯先がバネのようになっています。この仕組みにより、歯の両側は、エネルギーを伝達している間ずっと隣の歯車と噛み合ったまま、歯の中央の中空部に必要なバックラッシュを取り入れることに成功しました。これによって、デイトナのクロノグラフ針は、時の流れを滑らかに、かつ正確に表現することができるようになったのです。




●シチズンのサイトより → https://citizen.jp/support-jp/manual/terms/deeper_07.html



以前デイトナは、エル・プリメロを独自にチューンアップしたムーブメントを搭載していましたが、機構が複雑過ぎて、ロレックスのお家芸である実用性を進化させることが困難でした。しかし、この完全自社製のキャリバー4130に採用したLIGA加工で作られたクロノグラフ歯車で新しいデイトナは、時計が縦に厚くなってしまう垂直クラッチの弱点を完全に克服し、薄くて、耐久性においても10年というメンテ期間の長さを実現しました。



一般的にロレックスは多くを語りませんが、これほど超実用的なクロノグラフはデイトナ以外に見当たらないことは確かです。現在販売されているデイトナの第6世代となるRef.116500LNのカリスマ性の裏には、このような秘めたるムーブメントの素晴らしさがあるのです。


[脚注]
[*1] https://www.youtube.com/watch?v=MBnsCEg5zg8
[*2] https://watchesbysjx.com/2020/11/rolex-daytona-movement-4130-liga.html