無形文化遺産となったスイスの時計産業のルーツを探る(第一話)~キリスト教とスイスの時計作りの関係~ by L’Hiro

 By : Guest Blog




無形文化遺産となったスイスの時計産業のルーツを探る(第一話)
~キリスト教とスイスの時計作りの関係~  by L’Hiro


昨年の12月16日にユネスコ(UNESCO/国連教育科学文化機関)は、スイスとフランスの機械式時計の職人の技能を無形文化遺産に登録しました。機械式時計の職人技という形のない文化遺産が「科学、芸術、技術の交差点」にある、というのが認定の理由です。一般的にスイスといえば時計とイメージされる方は多いと思いますが、その技術がフランスから伝わったことはあまり知られていないのではないでしょうか。今回から2回に渡ってスイスの時計産業のルーツを探っていきます。 




◆キリスト教の職業観を変えたカルヴァン
キリスト教には、カトリック教派とプロテスタント教派があることはご存じだと思います。中世の経済活動の栄枯盛衰とこのキリスト教の歴史には深い関わり合いがありました。特に、それまでキリスト教の本流だったカトリック教派に反対する(Protest)プロテスタント教派の主要な一派であるカルヴァン派を広めたジャン・カルヴァンがスイスにおいて重要な役割を果たしました。
カルヴァン(1509-1564)は、フランスで生まれた神学者で、ジュネーヴ大学の創設者でもあります。彼は1536年に「キリスト教綱要」を出版し「予定説」を唱えます。それは、神に救いを求めようというカトリックの考えは思いあがっていて、誰を救うかは神だけが決定権を持ち人間はこれを変えられないという思想です。そして、人間は一途に天職に励むことのみが神の意志にかない救いの道に通じるとし、キリスト教で初めて蓄財を承認しました。ちなみに、フランスのユグノー、英国のピューリタン、オランダのゴイセン、スコットランドのプレスビテリアンは全てカルヴァン派の呼称です。

カルヴァンは布教活動の本拠点であった16世紀のジュネーヴにおいて、時計産業などの経済活動が反映する土台となる新しい職業観を広めました。 


●題名:カルヴァンの肖像画(Portrait de Calvin)、作者:ショフェ・アリ(Scheffer, Ary)(Dordrecht, 10–01–1795 - Argenteuil, 15–06–1858)、油絵、Musée de la Vie Romantique(パリ市民ロマン派美術館)所蔵 


当時のヨーロッパを支配していたカトリックの世界では、働くことは好ましいものとは考えられていませんでした。神に禁じられたリンゴを食べたことで、アダムは罪を償うために自分で耕して食べ物を作るという罰が与えられ、イヴには妊娠と出産の苦しみが与えられた、という話はカトリックの有名なエピソードです。

それに対して、カルヴァンは「仕事=神の教えに従うこと」という新しい概念を打ち立てました。あらゆる欲望を絶ち禁欲的に働くことが救いになるという彼の職業観は、カトリックのそれとは真逆なものでした。「働いて得られた必要以上の金は神に通ずる教会に渡しなさい」という当時の理不尽なカトリック教会のルールを完全否定したのです。「働くことは忌むべきこと」となっていた時代に、突然、「働くことは神の教えにしたがうこと」となればカルヴァンが本拠地にしているジュネーヴの経済が繁栄しないわけがありません。かの有名なドイツの社会学者のマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という有名な著書において、資本主義の発展の起源は禁欲的なプロテスタンティズムであったと説いていることがそれを証明しています。そして、カルヴァンはジュネーヴを“プロテスタントのローマ”と言われるまでにプロテスタント教派の聖地に育てあげました。

以上が、スイスで時計産業が生まれる元となったプロテスタントのカルヴァン派の思想です。次は、実働部隊としてジュネーヴに時計産業を芽吹かせたフランスのプロテスタントの話に移ります。 


◆時計作りの伝道師 “ユグノー”
フランスのカルヴァン派のプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれていました。語源はドイツ語の「アイトゲノッセ(Eidgenosse/同盟者たち)」です。これが16世紀前半のジュネーヴでフランス語風に訛って「ユグノー(Huguenot)」になりました。

ユグノーは、その多くがフランスの最も重要な工業に従事する企業家、資本家、熟練労働者で、商業、金融業においても確固とした地位を築いていました。ユグノーの働き振りはその労働日数によく表れていて、カトリックのそれと比べて約五分の一多く、日数にすると年間で約50日も多く働いていました。これは、富を築いてもその経済活動を中止することを厳しく禁じたカルヴァンの教え を忠実に守っていた結果でした。

ユグノーの中には時計職人も多数いました。彼らは特に高度で精密な計算を必要とする先端技術を扱うために、算数の知識の他、読み書き、製図、天文学なども学んでおり非常に有能でした。かの有名なスイスのヌーシャテルで生まれたアブラハム・ルイ・ブレゲの両親や、ジャガー・ルクルトのルーツを作ったピエール・ルクルトもユグノーであるなど、名だたるスイスの時計ブランドの過去を調べると、何らかの形でユグノーと関わり合いを持っています。
しかしながら、フランスは歴史的に見てローマ教会の侍女と呼ばれるほど忠実なカトリック国です。したがいまして、いくら国力を上げる能力を持っていたとしても、ユグノーは宗教的な異端者として、カトリックから徹底的に迫害される標的になりました。そして、二回の大きな出来事を中心としたジュネーヴへの二期にわたるユグノーの亡命が、スイスで時計産業が生まれる引き金になります。

 
◆ユグノーの第一期亡命
世に言う宗教改革はカトリックからプロテスタントを分離させた一連のキリスト教の改革のことですが、その起源は、1517年にドイツにおいてマルチン・ルターが出した95箇ヵ条のカトリックに対する批判的な質問状です。その後、カルヴァンが主役となり、一層、プロテスタントの勢いが強まるわけですが、ユグノーの第一期亡命には、フランスのカトリックとユグノー(プロテスタント)が16世紀に40年近く争った宗教戦争(1562-1598)が大きな影響を与えています。この間、絶えずユグノーはカトリックに迫害を受け、他国に亡命し続けました。この迫害は信仰する宗教が完全に自由となるフランス革命(1789-1799)まで続きます。

第一期亡命の流れは1540年から1590年にかけて起こります。もっとも大量に亡命したのが、1572年8月23日から24日の夜にパリでカトリックが3千人以上のユグノーを殺したサン・バルテルミーの虐殺により地方まで波及したユグノーへの激しい迫害でした。フランスからのユグノーの亡命でジュネーヴの人口は、1550年から1560年にかけて元の約2倍となり、じつに2万人以上となりました。この時期にジュネーヴに時計産業が産声を上げます。


●題名:サン・バルテレミー(La Saint Barthélémy)、作者:フランソワ・デュボワ(Dubois, François) (Amiens France,1529 – Genève Swiss, 24–08–1584)、版画、パリ・カルナヴァレ美術館(Musée Carnavalet, Histoire de Paris)所蔵


時計作りはその原材料が非常に少ないにもかかわらず、多くの人間による手作業が不可欠です。また、時計のムーブメントの価値の高さは、注がれた人出の多さに比例します。多くの亡命者により人であふれかえるジュネーヴは、こういう極めて労働集約型の特殊なビジネスである時計産業にとってうってつけの地域でした 。こうして、亡命者の中に多くいたユグノーである時計職人が、ジュネーヴに時計産業を芽生えさせたことは自然の成り行きでした。

また、当時のジュネーヴは司教座都市で、カトリック教会があり、十字架、聖像、聖杯や燭台などのカトリックの儀式に使われる貴金属を作る手先が器用な多くの職人を抱えていました。しかしながら、カルヴァンの宗教改革により、富をひけらかすことが禁止され貴金属の需要が消滅していたことから、金銀細工職人は時計産業、特に宝石であり宝物だった懐中時計作りに興味を寄せていました。そこに多くの時計職人がいるユグノーが次々と亡命し、懐中時計作りにおいて、金を伸ばす技術、時計の外側部分を作る技術、ガラス部分を作る技術、鎖を作る技術をもたらしました。懐中時計の蓋の装飾には七宝の絵付けがされ、宗教画などのモチーフが色鮮やかに描かれていました。ただし、カルヴァンの信仰により贅沢品の使用は禁止されていましたので、出来上がった懐中時計はジュネーヴで使われることはほとんどありませんでした。当時の時計は時間を計るというよりも装飾品としての役割が強かったのです。かかる状況下、ジュネーヴで作られた懐中時計はヨーロッパの王族や貴族だけでなく、トルコや中国まで輸出されました 。






 ●フランスの中南部のオーヴェルニュから亡命したユグノーのアントワンヌ・アルロー(Anthoine Arlaud)が1620年から1630年の間に製作した作品、ジュネーヴ製、The Metropolitan Museum of Art(メトロポリタン美術館)所蔵








●当時フランスで時計産業が栄えていたフランスの中央部にあるブロワからジュネーヴに亡命したユグノーのピエール・デュハンムル(Pierre Duhamel)が1660年から1680年の間に製作した作品、ジュネーヴ製、The Metropolitan Museum of Art(メトロポリタン美術館)所蔵


次に、ジュネーヴに時計産業を根付かせた有名な時計職人についての話です。既述のとおりプロテスタントである時計職人の多くが宗教戦争中のカトリックからの迫害によりジュネーヴに亡命したわけですが、同地で一番最初(1554年)に、アビタン(Habitant)という外国人としての居住権を獲得した時計職人はフランス北東部ロレーヌ地方出身のトマ・ベイアール(Tomas Bayard)でした。

その後、1554年から1574年にジュネーヴで16人が時計職人として登録していたようですが、中でもジュネーヴにおいて時計製造の技術導入に大きく貢献したのはフランスのオタン出身のシャルル・キュザン(Charles Cusin)です。父親は著名で多才な職人(時計職人、パイプオルガン楽器製作職人、大砲鋳造職人)で、彼自身も時計職人でした。彼はプロテスタントを自由に信仰できる地であるという理由と、貴族階級の医者から馬と時計を盗んだことでジェネーヴの裁判所に召喚されたという理由で、1574年にフランスからジュネーヴにやって来ました。

彼は時計職人としての腕前を遺憾なく発揮し、1587年にはカルヴァンが本拠地にしていたサン・ピエール大聖堂の時鐘の装置(自動的に音を鳴らして時刻を告げるストライキング機構)を洗練させたことが高く評価され無罪放免の恩赦を受けただけでなく、ジュネーヴの参政権がある確かな身分も無償で得ました。彼の名声は瞬く間に知れ渡り、後にナントの勅令を出した、時のナバル王国の国王(=後のアンリ4世)にもフランスへの召致を打診されました。しかし、プロテスタントに好意的なジュネーヴ市から得た栄誉のもとでの平穏な日々を好み、それを断りました。彼は、その後も数々の素晴らしい職歴を残し、1590年にジュネーヴ評議会からの依頼で、前金をもらいレマン湖近くのモラール(Molard)広場の大時計の修復に取り掛かりますが、完成前に突然姿を消します 。その後の消息は分かっていませんが、シャルル・キュザンのジュネーヴの時計産業への貢献度の高さは、レマン湖近くの現存する通りの名前「Rue Charles-Cusin」になっていることからも伺い知れます。

このように、キリスト教の歴史が色濃く影響し、機械式時計作りがスイスで産声を上げます。更に発展するスイスの時計産業の話は次回に続きます。

最後に、3月28日まで新宿の小田急デパートで開催されていたスイス時計協会のイベントで、スイス時計を7つのテーマ(スイス、スイス・メイド、歴史、デザイン、精密、複雑時計)で展示していましたが、その中の「スイスの時計作り」のダイジェスト版の動画をスマホで撮影したものを、許可を得て掲載しておきますので、ご参考にしていただければと思います。




●スイス時計協会FH製作、スイス時計産業プロモーション・イベント 『WATCH.SWISS(ウォッチ・ドット・スイス)ジャパン』より





【参考文献】
[i]金哲雄著, 『ユグノーの経済史的研究』pp.62-71, (株式会社ミネルヴァ書房、初版第1版発行:2003年3月15日)

[ii] 大川四郎/岡村民夫編『国際都市ジュネーブの歴史』 pp.12-13(発行所:株式会社昭和堂、2018年6月30日初版第1版発行)

[iii] 「Les premiers horlogers genevois」「La Fédération Horlogère Suisse」「LA CHAMBRE SUISSE DE L’HORLOGERIE,DES CHAMBRES DE COMMERCE, DES BUREAUX DE CONTROLE, DES ASSOCIATIONS PATRONALES ET DE L’INFORMATION HORLOGERE SUISSE」, 1921年4月2日(土),p.191

[iv]大川四郎/岡村民夫編『国際都市ジュネーブの歴史』 p290(発行所:株式会社昭和堂、2018年6月30日初版第1版発行

[v] www.eulglod.fr/morvan/charles_cusin_2961.htm 
 「Les premiers horlogers genevois」「La Fédération Horlogère Suisse」「LA CHAMBRE SUISSE DE L’HORLOGERIE,DES CHAMBRES DE COMMERCE, DES BUREAUX DE CONTROLE, DES ASSOCIATIONS PATRONALES ET DE L’INFORMATION HORLOGERE SUISSE」, 1921年4月2日(土),p.191