HYT Headquarter & Preciflex Laboratory Visit Report

 By : CC Fan
今年もよろしくお願いいたします。

昨年、書ききれなかった6月スイス紀行の残りを早いうちにまとめてしまおうと言う訳で、先ずはHYT(Hydro Mechanical Horologist)の本社&研究会社Preciflex社の訪問レポートをお送りします。

HYTはHydro(=液体) Mechanical(=機械) Horologist(=時計師)のブランド名が表すように、液体を使った機械式時計を作り出すことを目標としています。
本サイトでもKIHさんによるSKULLの新作ニュースが掲載されています。

液体による表示と言ってもイメージがわきにくいと思いますので、先ずは公式の動画をご覧ください。


HYT - THE HYDRO MECHANICAL HOROLOGISTS (YouTubeのHYT公式チャネルより)

時間表示の部分が色付きの液体によるレトログラード表示になっているレギュレーターです。
対になっているベロー(ふいご)の片方をスネイルカムが押すことによって押し出された色付きの液体が動き、透明の液体との境界面(メニスカス)によって時間を表示するという仕組みです。
スネイルカムを使ったレトログラード表示という仕組みは針表示と変わりませんが、液体モジュールは針の10倍程度のトルクを必要とし、非常に"重い"表示だそうです。

現在ラウンド型の初作H1、よりムーブメントと液体モジュールを一体化したH2、リニア表示のH3、H1のアレンジ版H4、そして分表示をオミットして時間表示がドクロ型のSKULLなどのバリエーションがあります。


H4 Gotham(Preciflex社 CEO Grégory Dourde氏)

機械式ムーブメント自体は外注(H1、H4がクロノード社、H2、H3はオーディマ・ピゲ・ルノー・エ・パピ社)ですが、一番のコア技術である液体モジュール部分は内製化しています。
液体モジュールの開発と製造を行っているのが研究会社であるPreciflex社で、時計としての最終組み立てと販売・ブランディングを行っているのがHYT社という役割分担になります。


リニア表示のH3 (ノーブルスタイリングさんのイベントで撮影)

今回、ノーブルスタイリングさんのHYTイベントでお会いした副社長のIon Schiau氏に"スイスに来ることはあるか?"→"ちょうど来月クラーレの工房に行くよ"→"うちにも招待するよ"という棚からぼた餅で両社を見学できることになり、日本初(?)の訪問が実現しました。
スライドの写真などは使用NGと言う事で、文章説明が多くなってしまうかもしれませんが紹介したいと思います。

HYTがあるヌーシャテルについて

Preciflex社、HYT社ともに、スイスのヌーシャテル(Neuchâtel)にあります。
古い町並みが残っている非常に風光明媚な土地です。


ヌーシャテル湖畔から街並みを望む

ホテルもノーブルスタイリング山口氏お勧めの17世紀の建物をそのまま使ったという良い雰囲気の宿でした。
(Schiau氏には"そんなところで良いのか"と言われましたが)


ホテル Auberg'inn

先ずはPreciflex社にて、会社紹介・コア技術のプレゼンテーション、ケミカルラボ・製造部門の紹介、ガラス管曲げ体験などを行いました。

Preciflex社プレゼンテーション

Preciflex社CEO(HYTの役職も兼任)のGrégory Dourde氏からPreciflexの生い立ち、液体モジュールについての各種説明を受けました。


Grégory Dourde氏

私も専門外ではありますが理系のため、化学や流体力学の話などは非常に興味深かったです。

Preciflex社は数十名と小規模ですが、博士号を持った研究職が多く、研究開発会社としての性質が強く、開発したパテント・IP(Intellectual Property:知的財産権)を対企業に売るB2Bの企業で、あくまでもB2Cの販売はHYTが行うそうです。
また現在はHYT専属ですが、時計以外にも使えるような技術の開発も行っており、それを期待した投資も集まっているようです。

正直、オーバーホールのたびに液体を抜いて詰め替えているのだろうと考えていたのですが、大きな間違いでした。
液体自体と液体モジュールは高温環境下での加速試験(アレニウス則を適用)により、20年経過分の負荷を与えて問題ないことを確認しており、通常の機械式ムーブメントが4年ごとにオーバーホールを必要としているのに対し、液体モジュールはノーメンテナンスで使えるそうです。


液体モジュールの写真パネル

液体表示は境界面(メニスカス)が時刻そのものを表すのと同時に、"プログレスバー"としての性質も持ち合わせており、経過時間や割合なども針の表示よりも理解しやすいという哲学があるようです。
確かに、H3のリニア表示などはコンピューターのプログレスバーのように割合が分かりやすいかも…と思いました。

レトログラード表示に必要な移動量を具体的な数値で表すと、スネイルカムの1mmの高低差を100mm弱の液体の動きにしなくてはいけません。
液体はガラス管ギリギリまで詰まっているように見えますが、液が通る部分はもっと細く、光学屈折により液体が詰まっているように見せ、少ない液体の量で表示ができるようにしています。

液体モジュールの構成要素の中で最も高価な"パーツ"は色付きの液体に使用す染料(Dye)で、医療系技術がバックグラウンドだそうです。
これは色付きの色を変えた場合、透明側の成分も変えなくてはならず、その研究開発と耐久性確認のための加速試験に時間がかかるそうです。


染料(Dye)の写真パネル

染料とガラス管内に施す特殊な撥水コーティングがPreciflex社の最も重要なコア技術であり、時計業界以外からも注目されているそうです。
秘中の秘のため、公開リスクがある特許も取得していないという徹底ぶりです。

形成された境界面は勢いよく液体が移動し乱流が発生してしまうと破壊されてしまいます。
これを防ぐために"速度制限"を行うためのリストリクターがチューブの根元に装着されレトログラード時や時刻調整の際に速度が上がりすぎないように制限しています。

ここまでで表示は実現できましたが、無対策では表示に温度依存性があり、温度によって表示がズレてしまいます。
構造的にはアルコール体温計と同じようなものなので、温度によってズレると言う事は容易に想像できます。
この問題に対し、温度補償機(サーマルコンペンセイター)という部品がベロー(ふいご)内に設けられ、温度変化による液体の体積変化を打ち消すことで表示を一定に保っています。
この部品はH1,H2ではベローに隠れてしまっていますが、H3では外側に可視化され、ユーザーから見ることができます。


HYT H3: The linear fluid revolution – The Movie ! (YouTubeのHYT公式チャネルより)

1:00あたりでベローの真上についているバネのついた部品が温度補償機です。

さて、そのベロー(ふいご)も技術的には難しい要素です。
ムーブメントのトルクロスを考えるとできる限り薄くしなくてはいけませんが、耐久性を持たせるためには厚くしなくてはいけません。


ベローのカットモデル(向かって右が温度補償機)

また、空気が混入すると温度に対する膨張特性が設計とずれてしまい、前述の温度補償機がうまく働かなくなるため、気密も保たなくてはなりません。
これに対する解決策は、宇宙用の技術をベースに開発した最適な厚みを持った多層構造の金属製のベローで、所謂防水時計の10,000倍の気密性があり、注入方法も工夫し空気が混入しないようにしています。

最期に説明されたのはH4 "Metoropolis"で実用化されたダイナモです。


HYT bathes its H4 Metropolis in light - The Movie (YouTubeのHYT公式チャネルより)

これは超小型の交流発電機をゼンマイにチャージした動力で回し、交流のままLEDを点灯させるという技術です。
交流のままLEDを点灯させているので、寿命リスクになる整流子や電解コンデンサを使わなくてすみます。
LEDは高速で点滅していますが、人間の目には連続点灯しているようにしか見えないため問題ないと言う事のようです。
発電機とLED以外の部分は伝統的な時計作りの技法で作られています。




プレゼンテーションの説明に使われた各種パーツ

ケミカルラボ見学

プレゼンテーションの後はDourde氏の案内でケミカルラボを見学しました。
ここではケミカルの博士号を持つ女性(Preciflexの頭脳)が、色の合成や耐久度試験、量産化のためのレシピ作成を行っています。


ケミカルラボイメージの写真パネル

プレゼンテーションでもあったように、液体組成は秘中の秘であり、公開リスクがあるため特許もとっておらず、色側は当然ながら、透明側も色側に合わせて組成を変える必要があると言う事が説明され、実際に染料を液体に落とすデモを行ってくれました。
二つの透明な液体に対し染料を落とすと片方だけ色が付くというのは理屈ではわかっていますが、不思議な光景でした。

Lunch

ケミカルラボ見学の後、Schiau氏とCo-FounderのLucien Vouillamoz氏と合流し、Lunchとしてヌーシャテル湖の魚料理を食べました。
Vouillamoz氏は600馬力のAudiを飛ばし、前日(まだ書いていませんが)のポルシェのオープンカーを飛ばすクラーレ氏とともに、"エグゼクティブ=ハイパワーを飛ばす"の公式が私の頭にインプットされました。
川魚はおいしかったです。

液体モジュール工場見学・体験

Lunch後はVouillamoz氏の案内( カメラを渡しての撮影してもらう)で、実際に液体モジュールを作っている現場を見学しました。


Lucien Vouillamoz氏

加圧クリーンルームで、帽子と白衣を装着し、化学用の器具が並ぶ様子は時計の部品を作っているとは思えない環境です。


PRECIFLEXの白衣の写真パネル

見学することができたのはスカルのガラス曲げ、液体の注入・サイクル試験・最終チェックです。
このうち、ガラス曲げと液体の注入は実際に体験することができました。

先ずスカルのガラス曲げですが、ガラス管を専用の冶具にセットし、ガスバーナーで炙りながら曲げていくというある意味ローテクな手法です。
お姉さんのお手本を見ているだけだと簡単だと思ってしまいますが、実際には2つ目の冶具で基準に合わなくなりNGという不甲斐ない結果に終わりました。
ちなみに、高価な撥水コートは曲げ処理がすべて終わって基準を満たしたものにだけ後処理で施すのでここで多少のロスが出ても問題はないようです。

液体の注入は化学用の注射器や脱湿装置、切換え弁などを組み合わせて作られた専用の注入冶具を使い液体を注入します。


液体注入装置の写真パネル

H1(H4)、H2、H3ごとの液体モジュールごとに専用の冶具がありますが、最も注入が難しいのはベローが離れている上に対抗しているH3だそうです。
プレゼンテーションでも説明されたように空気が残っていると問題が発生するため、減圧装置も併用して徹底的に空気を追い出していきます。
この冶具は一回使うごとに分解清掃が必要だそうで、非常に手間がかかるようです。

液体を詰め終わったら液体モジュールをサイクル試験用の冶具にセットし、恒温槽に入れてサイクル試験を行います。
これはイメージ的には"慣らし運転"で故障率曲線の初期段階を潰すためのもののようです。

これが終わると専用の測定器に液体モジュールをセットし、押し量vsメニスカス位置の最終調整を行います。
同時に何種類かあるスネイルカムのプロファイルから最適なものを選定し、組み合わせるムーブメントを決めます。

HYTヘッドクォーター訪問 & 組み立て見学

Preciflex社見学の後はHYT社のヘッドクォーターに移動しました。
Preciflex社は街中の建物でしたが、HYT社はヌーシャテル湖湖畔の見晴らしの良い建物です。


ヘッドクォーターからの眺め

現在は2階建ての2F部分だけですが、将来的には1F部分も借りたいとのことでした。
しばし風景を眺めながら休憩します。


ヌーシャテル湖

ヘッドクォーターオフィスの一角に気密と吸着マットを備えた時計師の部屋があり、組み立てやメンテナンスはそこで行われています。


時計師のデスク

ムーブメントなどは既に外注先で組み立てられているので、ここで行われているのは最終組み立てと言う事になります。
H1のムーブメントを組み立てる実演を行ってくれました。
液体モジュールと機械式ムーブメントの部分が綺麗に上下に分かれるため、組み立てはやりやすそうでしたし、結構早く組み立てられていました(実演だからかもしれませんが)。
歩度測定器や気密測定器があり、一通りの検査も行っているようです。
時計師の前には作業項目を一覧化した表がディスプレイに表示されており、タスクが分かりやすくなっています。

ミーティングルームには革新性に対して贈られたトロフィーが飾られています。


トロフィー群

まとめますと、見学して一番に感じたことは、"伝統的な時計工房"のイメージとは異なっていると言う事です。
これはネガティブな意味ではなく、"まだ新規開発する必要がある要素はある"という強いメッセージを感じたと言う意味です。
液体表示というと見た目だけの派手なものかという色眼鏡がありましたが、言うほど安易なものではないし、寿命も考慮しています。
今後は液体コンプリケーション&小型機も期待してほしいとのことで、期待しています。
ちなみに、ビスポークサービスも始まったようです。

関連 Web Site (メーカー)

HYT Watches
http://www.hytwatches.com/

YouTube HYT Watches 公式チャネル
https://www.youtube.com/user/HYTwatches
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