フィリップ・デュフォー 氏との午後~アトリエ訪問記(2013年に英語で寄稿したものを和訳)

 By : KIH




オリンピックも中盤、猛暑、例のウイルスは猛威。。。みなさん、いかがお過ごしだろうか。筆者は幸い、ずっと在宅勤務が許されている環境なので、食料品の買い物以外は一歩も出ずに問題なく過ごしているが、そうもいかない人たちは本当にお疲れ様である。もちろん、選手の皆さん、運営に日々汗を流されている人達もお疲れ様である。


在宅勤務ではあるが、正直忙しい。海外相手の仕事が多く、平常勤務以上に「24時間働けますか」状態なので、時間の感覚も鈍ってくるというのが正直なところ。最近は面倒でカーテンも開けないので外がどんな天気なのかもわからない。

などと、自分の生活の状況を書くためのブログではないのでこの辺にしておいて、忙しい中でちょっと時間があくと、オリンピックを見るほどの時間はないがYoutubeなどを見てしまうのも事実だ。最近、フィリップ・デュフォー氏に関するこんなのを見つけた。妙に懐かしく感じて見てしまった。「Set the record straight(ここではっきりさせておこう)」とあったので、何か噂あるいは都市伝説のようなものがあってそれに対してご本人が答える、というものかと思った。内容は個人的には取り立てて目新しいモノではなかったが、お嬢さんが時計師になりアトリエで氏と一緒に働いている、ということを聞き安心し、しばらく前に、こんなインタビュー記事を今は亡きPuritSPro.comに書いたなあ(英語)と思い出し、ここで日本語で駄文を披露しようと思ったのだ。

また、最近WMOのインスタグラムに載せたシンプリシティの写真が思いのほか人気で、さらにDMには「どうやったら予約を受け付けてもらえるんだ?」とか「お金がないけどどうやったら安く買えるだろうか?」という、おそらく最近時計に(あるいは、投資としての時計購入に)興味を持ち始めた人たちからのメッセージが大量に来て驚いた(ついでに皆さんにもアカウントをフォローしていただけると大変ありがたい)。以下でデュフォー氏も言っているが、ここでもはっきりとお伝えしておく。シンプリシティをデュフォー氏から買うことはもうできない。売り切れ。ディスコン。もう作らない。以上。


34㎜ プラチナモデル

この時計は、そもそも日本にファンがいると友人の独立時計師プレジウソ氏に言われたことから作ろうと思ったのが最初。反骨精神もあり、時計が大きくなり始めている時だからこそ、34㎜という小さな時計を作ることにこだわった。困難もあったが、その度に日本のファンの声に支えられ、数年をかけて開発し、2000年前後に発表、2002年にバーゼルに出品。もちろん日本の小売店がどっと押し寄せてきた。その中で代理店としてシェルマンさんを選び、カミネさんを含む小売店で200個限定で売り出し、結果として120個が日本で売れた。そしてデリバリーには7-8年かあるいはそれ以上かかった人もいただろう。売り出した当初の価格は、私の記憶が正しければ200万円程度。そして、今のオークションではその10倍以上の数千万円、という化け物時計となった。上記のYoutubeで、彼がそれをどう感じているかをしゃべっている ー 光栄に思う、と。モノの価値を左右する需給は一体どういう基準で決まり、そして変化するのだろうか。この時計が話題になり始めたころ、世界には「なぜ日本だけにあんなにたくさん売ってるんだ? 不公平だ!」などという、背景を知らずに文句を言っている人達が多かったのを思い出す。

オリンピック期間中、時計の主役はオメガだが、ちょっとした暇つぶしに読んでいただけると幸いである。何しろ、自分の作品が元の値段の10倍以上でオークションで売れる存命中の人など、そうはいないのだ。

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フィリップ・デュフォー氏、オリビエ・ミューラー氏との午後
2013年12月14日

12月上旬のある日、もはや「旧友」となったオリビエ・ミューラー氏(元ローラン・フェリエ CEO)に、彼の友人であり、誰もが知っているフィリップ・デュフォー氏のアトリエに連れて行ってもらった。ミューラー氏とは、私がローラン・フェリエを日本の小売店に紹介してからの友人である。私は仕事を辞め、何の当てもないままプー太郎の生活中、というか、次を待っている間という方がかっこいいか、とにかく時間が自由だったので、好きな時に好きなところに行ける状態だったのだ(もちろん、自分の財布からすべて出ていくので貯金残高がみるみる減っていくのだが)。

もちろん、これは正式なインタビューではなく、我々3人の会話を書き留めて、写真と共にお届けする。もちろん、書いていい、と許可をもらった部分だけである。ここに書けない面白い話は山ほどあったが、申し訳ない。


0. ジュネーブからヴァレ・ドゥ・ジュ―までの道のり
ミューラー氏が親切にもジュネーブに迎えに来てくれ、1時間半のドライブで連れて行ってくれた。


スイスは電車も割と有名だ。



そして通り道にはいろいろなブランドが。







そして・・・

到着!



1. デュフォー氏は今何をしているか?
デュフォー氏は、我々が到着したときにはシンプリシティのオーバーホールをしている一方で、7番目に受注したグランドソヌリを作っていた。シンプリシティの製作が完了してから作り始めて9か月経つが、完成までにはまだ数か月かかるとのこと。


オリビエ・ミューラー氏とフィリップ・デュフォー氏




シンプリシティのオーバーホール中。美しい。。




そして、製作中のグランドソヌリ。誰がお客さんなんだろう? 羨ましい・・・・。



さて、他のデスクでは何か作業中?




もちろん、彼はNo. 000(プロトタイプ)、34㎜のシンプリシティをしていた。「これは私が作る時計の中でただ1つ私でも買える時計だ」と笑いながら言っていたのが印象的だった。


私の手首にもデュフォー氏愛用のNo. 000が!














さらに、「プロトタイプだから、仕上げも大したことないよ」と言っていたが、いやいや、私はこれでも十分っす。



ちょっとQ&Aタイム:
Q: シンプリシティかデュアリティは、もう作る予定はないのですか?
A: シンプリシティについては、「NO」。デュアリティは、うーん、XX人の人がリストに載っていることは載っているけど、仕上げるつもりではあるけど時間はまだ先だろうね。ということで、「シンプリシティを作ってくれないかな」とか「デュアリティを作ってくれないかな」などと思っても無駄、ということのようである。
さらに、デュアリティについては、今まで9つ作った。しかし、そのうちの1人がすぐにオークションにかけやがった。それで、買った値段の倍の価格だった。それに頭にきてもう作るのを止めたんだ。時計の作り手として、そのようなことがすぐに起こるということは許せない、ということ。デュアリティのリストに載っている人達は、もうしばらく辛抱しなければならない。

とは言うものの、デュフォー氏いわく、「あと2人、助手の時計師がいれば、それらのオーダーはこなせるんだが」。今まで、何人も助手がいた。そのうち2人は日本人だ。日本人のうち1人は、今はシンプリシティのサービスのために東京にいる。もう1人の日本人は2年働いてくれたが、昨年辞めた。最後に「2年間もこのような機会をくれたことに感謝しています。しかし、何年働いてもあなたが求めることがわかりませんでした。」デュフォー氏は、彼にそれほど期待していたということ。もちろん、彼が辞めると言った時には落胆した。

デュフォー氏は、アトリエを見渡して「これが私の失敗作だ」と言ったのが印象的だった。すなわち、誰一人として残らなかった、ということをデュフォー氏は非常に悔いているのだ。

(訳注: そして今、彼の娘が彼の後を継ぐべくアトリエで働いていると上記のYoutubeで知り、筆者は本当にほっとしている。デュフォー氏も年を取ったし、好々爺とは言えないかもしれないが、きっと娘さんを立派な跡継ぎに育ててくれるであろう)



そして、デュフォー氏は金庫から彼の大好きな時計を取り出してきた。

なんでしょ?


なんと、デュフォー氏の大好きな時計はランゲのダトグラフだったのだ! (本当は有名な話)


2. さて、次はなに?
「多分、シンプリシティとグランドソヌリの間だな」。
いやいや、それはあまりに広いです。もうちょっと詳しくお願いします。

「そのうち教えてあげるよ」
いつ?
「教えられる時が来たら」

なんとも、答えをもらったような、もらわなかったような・・・。


それはともかくとして、アトリエの壁には・・・









そして、最新のトロフィーも。



3. 菊野昌宏さんについて
デュフォー氏は、菊野氏をAHCI会員に推薦する2人のAHCIメンバーのうちの1人だった。私は菊野氏の最新作(Mokume)を持って行き、デュフォー氏に見てもらった。







彼の最初の言葉は、「うん。良くなってる。非常に良くなってるよ。とてもいい。」そして、続けて「彼は非常にユニークだが、伝統的な時計師のスタイルだ。もちろん、たっぷりと日本文化と日本の伝統や歴史を受け継いでいる。そしてそれを全部彼は自分の手でやるんだ。私みたいにね。また彼の作品をバーゼルで見たいよ。

同じ日本人として、非常に誇らしく思った瞬間だった。菊野氏、がんばれ~。


5. 日本の思い出
菊野氏について話した後、2000年代初頭に日本を訪れた時の思い出を語り始めた。彼はその時、ヒコ・ミヅノを訪れ、講義をし、また他の講師の話も聞いた。特に、セイコーのニューシャテル天文台でのクロノメーターコンクールに挑戦をしていた時の調整を担当していた小牧氏(当時すでに80歳だったと思う)の話が印象に残っているようだった。小牧氏はセイコーがいかに速くコンクールの順位を上げていって、ニューシャテルがコンクールを止めることになったかを話していた。


デュフォー氏によると、「ところでだ、3年前にまた天文台クロノメーターコンクールが復活したぞ。誰でも参加できるんだ。ただし、中国と日本以外からならな。」 デュフォー氏は、そういう天文台の態度に非常に批判的だった。こういうコンクールは、世界中からの参加でないと意味がない。だから、ほんの数ブランドしか参加していないよ。大手ブランドはみんな参加していない。同行のミューラー氏に言わせると、「日本はマーケティングが下手だ。スイスはマーケティングが上手だ。ブランドストーリーの語り方や、ブランド価値の作り方も上手だ。」とのこと。悔しいが妙に納得してしまう。それが日本の美学なのだが、世界では通用しない。

デュフォー氏はさらに、「クレドールが日本以外で手に入らないのは本当にもったいない。クレドールの中には、グランドセイコーよりも仕上げが素晴らしいものが多い。そして、美しいデザインとエグゼキューションだ。」

日本好きのデュフォー氏の言葉であり、非常にうれしい話である。かのデュフォー氏は日本が好きだ、というだけでなんとなく嬉しくなる。



6.アトリエ
すべて、20世紀初頭から半ばまでの機械・器械である。CNCのような先進機器はない。






デュフォー氏はここで、「Cotes de Geneve」の作り方を見せてくれた。あっという間にできてしまったが、そのあと触らせてくれた。私の指はほとんど何も感じなかった。それだけ、浅いながらもしっかりとしたきれいなパターンが彫られているということである。驚いた、の一言である。






さく、さく、と数回やっただけで、こんなにきれいにできた。さすが、マイスター。。


と、ここで、氏は某ブランド(有名ブランドだが、口が裂けても言えない!)のムーブメントの写真を持ってきた。デュフォー氏いわく、「こんなのが実際に売り物になって買う人がいるなんて許せないよ。それだけじゃなくて、こんなボロの写真を平気でプレスに配っているなんてことも信じられん。本当に、信じられないほど無能なブランドだ。」



クローズアップした方がわかりやすいだろう。



わかるだろうか? いや、愚問である。見てすぐにわかる。それぞれ分かれたブリッジ(受け)によって、Cotes de Geneveの深さも幅も違う。そして、その結果当然であるが、なんとブリッジを隔ててCotes de Geneveがずれているのである!

ブランド名は苦労して消したものの、有名なラグジュアリーブランドグループの有名な時計ブランドだった、とだけ言っておこう。


さて、次にデュフォー氏は香箱上のパターンをどうやってつけるか、も見せてくれた。さきほどと同じ機械をいとも簡単に使って見せる。











あっという間に、この通り。素晴らしい!


そして最後に、シンプリシティのマクロ写真を見せながら、「この時計を作ったおかげで、これが我々のスタンダードになってしまった。これを常にやらなきゃならなくなったってわけだ。だから、私は時計業界のいわば『黒船』になっちゃったんだな。なぜって、大手ブランドにはこんなことできないからだよ。でも、私は『黒船』になって良かったと思っている。それによって、消費者が教育され期待が高まり、インターネットフォーラムでもより高度な議論がされるようになって、それは結果として時計業界にとって良いことなんだよ。」


7. デュフォー氏が昔作った時計
1960年代半ばに初めて作った懐中時計。今、65歳だからで彼は50年間時計師をやっている。ということは、この海中時計は彼が20歳の時あるいはもっと若い時に作ったということ? 




うーむ。素晴らしい・・・。

そして、オーデマ・ピゲの注文により、彼が最初に作ったグランドソヌリ懐中時計のプロトタイプ(80年代半ば)





音は・・・(イマイチの録音状態で申し訳ない、が、デュフォー氏肉声入りなのでご勘弁を)



オーデマ・ピゲはこの懐中時計を5つ注文したとのこと。世界のどこかにこれを持っている人がいる。まさに、超レアもの!



そして、この懐中時計から腕時計にするまでの苦労話を聞かせてた。とんでもなく大変だったに違いない。


最後に。。。


デュフォー氏、ミューラー氏、ありがとうございました。

ミューラー氏とはこの後、フォンデュを食べに行った。。。

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さて、いかがだっただろうか。
もちろん、7年以上も前の訪問であり、デュフォー氏も覚えているかどうか、というくらいのものだ。しかし、日本及び日本人好きのデュフォー氏の人となりを知る上ではお役に立てるのではないだろうか。上述の通り、彼の作った時計は、とてつもなく高価なものになってしまった。無論、いわゆる「転売屋」は氏は大嫌いである。しかし、ある程度の期間使ったオーナーがオークションに出して次のオーナーに引き継がれることは、自分の一部が世代を超えて残っていくことであり光栄に感じる、と考えているようだ。

そして、この記事を書くきっかけになった冒頭紹介した最近の氏の動画によれば、氏を引き継ぐ人物が現れた、という非常に喜ばしいニュースでありこちらとしても嬉しい限りだ。

またデュフォー氏と会ってゆっくりと話す機会が欲しいと思う今日この頃である。


皆さんも、蒸し暑い夏、猛威をふるう例のウイルス、等々、辛い日々が続いている人も多いと思う。デュフォー氏は、夢のような時計を作りながら、地に足のついた人物で、本当の意味での「職人」である。デュフォー氏がベタ褒めの菊野氏をはじめとして、我々に夢を見させてくれるそんな職人が、今も我々の周りにいるということを考えてもう少し辛抱しよう、と思った。