菊野昌宏氏の工房より~世界に一つしかない時計~ by L’Hiro

 By : Guest Blog

L’Hiro さんより、日本を代表する独立時計師 菊野昌宏さんの工房を訪ねた非常に興味深い記録を、ゲスト・ブログにご投稿いただきましたので掲載いたします。



世界に一つしかない時計~菊野氏の工房より~

  

今回は、独立時計師アカデミー(Académie Horlogère Des Créateurs Indépendants 、AHCI)のメンバーであられる菊野昌宏氏の、千葉県船橋市にある工房の様子と作品をご紹介します。

偶然にも、わたしの高校時代の親友が菊野氏と懇意だったこともあって、特にご厚意をいただき今回の工房訪問が実現しました。

 

工房は広い農園に隣接した静かな住宅街にあります。住宅の一階部分にある工房には三つの作業場があります。
時計作りに使う大きな彫刻機やケースを型取る機械類は、ガレージのような土台がしっかりしたところしか設置できないので、菊野氏は室内ガレージ付きの住宅を探したそうです。しかしながら、そういう住宅は駅から離れていることが多く、駅近の物件を見つけることに大変ご苦労されたとのこと。

居間を改造した作業場には、旋盤やら計測器やら糸ノコやらが所狭しと置かれていましたが、雑然とした様子は一切なく菊野氏の時計作りへの誠実な想いを感じました。毎日この作業場で時計を製作し、時々工房から外に出ない日もしばしばあるとか。





菊野氏は完全な受注製作をされていて、受注済みの時計は今年と来年で作り終え、再来年からは新作を手掛けられるそうです。

インタヴュー形式でお話を伺うことができました。

――まずは、時計作りに対する菊野氏の思いについてお聞かせいただけますか。

菊野氏:時計作りは、オリンピックの百メートル走の選手が世界記録を出して、周囲を驚かせるのに似ていると思います『自分も二本の脚が生えているけど、あんなに速く走れないよな』と思うから感動するんですよね。
ですから私は、『(皆が同じに持っている手を使って)こんな小さいものを削って作っちゃうの!』という「驚き」とか「ワクワク」というような、かけがえのない「価値」を提供したいのです。
その「価値」にもっと「ワクワク」して欲しいから製作の全工程を写真集にしてお客様へお渡ししています。完成品だけみても、"だれが"、"どこで"、"どうやって作っている"のかは分からないですよね。下手すると最近は、製品をばらしても、機械で磨いたのか・手で磨いたのか分からなくなってきています。少し前までは、機械で磨いたものは手で磨いたものに比べて明らかに劣っていましたが、最近は機械の方がきれいなものも多いです。
しかしながら、こういう状態が当たり前になってくると、「きれい」の価値は何なのかと考えてしまいます。
例えば、今や中国では複雑機構の機械式時計をかなり安く作れるようになってきています。今後、工作機械もますます進化していくなかで、「スイス製と中国製の違いって何?」という時代がすぐそこに来ている気がします。
だからこそ「あなたのために作ります」ということが、かけがえのない価値になると思います。
私のお客様に共通している点は、一人で作っているという世界観に重きをおいて、他の時計とは違うということを理解していらっしゃるということです。

――最近の経済活動の風潮では、お客さまの依頼内容をプロとして請け負った側が、いかにその責任をお客さま目線で誠実に果たしたかが重要であるとされ、またその責任を果たした事実を説明することも非常に評価される時代ですよね。

菊野氏:確かにそうですね。そういう意味では、これからはお客様がモノに対して納得しないと買わない時代に向かっているのかもしれません。

 

いかがでしょうか? 以上が、菊野氏の時計への思いですが、見た目だけでなく中身までも気持ちを込めて一人で製作したということを、これだけ赤裸々に説明すれば感動しないお客様はいないですよね。普通は言葉にできないようなことを心に響く言葉にして、分かりやすく語っていただきました。


さて次に、この工房訪問で見せていただいた、これまで製作された数々の時計のプロトタイプをご紹介しましょう。


まずは、2011年製作の「和時計」から。


 

次に、2012年製作の「トゥールビヨン」。メディアでは何度も写真拝見しましたが、実物は息を飲むほどに美しい。。。。

 




ミニッツリピーターの仕組みについて情報がないなか、2013年に制作したこちらの「折鶴」。
この作品をとおして、音の高い低いが風防をダイヤルにかぶせることで外への聞こえ方が全く違うことを発見したとのこと。周波数が低い振動回数が少ない低い音は風防をダイヤルにかぶせても音が外に聞こえますが、周波数が高い振動回数が多い高い音は風防をすると音がシャットダウンされて外では「カツッ、カツッ」という無味乾燥な音になってしまうのだそうです。




2015年には「和時計改」を製作。2011年の「和時計」は発表はしたものの、もっといいものができるはずと思い、市中には出さなかったとのことですが、こちらの時計は販売したそうです。自分のものにしていらっしゃる方が本当にうらやましい逸品です。



そして、2017年の「朔望」、こちらは年に三本のペースで受注製作しています。


興味深かったのは、この朔望に使われている黒四分一(くろしぶいち)という日本の工芸品用の特殊な合金への色づけのプロセス。この合金は昔から日本の金属工芸で使われていた素材で、刀のつばや帯どめに使われていました。
煮色着色(にいろちゃくしょく)という技法を使い、特殊な溶液で煮ることで最初は銅色だった表面を黒色に変化させます。面白いのは、煮る前に大根おろしにつけること。その後に銅の鍋で煮込むと色が銅色から黒色にきれいに変わるそうです。大根おろしは界面活性剤の仕事をしているようですが、氏が試しにマジックリンにつけてみたら、あまりよく色づかず、大根おろしの方がムラなく色づいたとのこと。大根おろしにつけるという脱脂のプロセスはかなり難しく、表面をきれいに脱脂した状態で煮ないとムラになり、黒色がきれいにでません。

また、この黒色は酸化被膜なのでこすれると色が取れますが、化学変化なので塗装とは違い、時間がたつと、また色づいてきます。銅がメインの合金なので緑青っぽい色になります。

 

世界に一本しかない時計。
しかも純日本テイスト。
いかがでしょうか。

 

菊野さん、貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました!