山田五郎氏トークショー「ドイツ時計の世界」より~日本橋三越本店ワールド ウォッチ フェア2020でのスペシャル トーク イベント・レポート by L’Hiro

 By : Guest Blog

※1/11日付で記事を一部訂正いたしました。



昨年、ゲストブロガーのL’Hiroさんから投稿いただいた、日本橋三越本店でのワールド・ウォッチ・フェア中のイベント、「山田五郎氏 スペシャル トークイベント」のレポートは、クロノグラフについて語られた非常に興味深い内容で、多くのアクセスをいただきましたが、その翌週にも、「ドイツ時計の世界」というテーマでのトークショーが開催されていました。

今回はその「ドイツ時計の世界」の講演を軸に、L’Hiroさんの考察も加えた記述をご投稿いただきましたので、新春スペシャル寄稿として掲載いたします。




前回の山田五郎さんのクロノグラフのトークショーに引き続き、その翌週に開催されたドイツの時計のトークショーに参加しました。今回は同氏の講演内容を深掘りして、さらに独自の調査も合わせて記載させていただきます。


ドイツ時計の世界

(10月24日日本橋三越本店本館6階に於いて) by L’Hiro


●ヘンライン伝説

16世紀初めまでは、ヨーロッパの時計産業の中心地は南ドイツでした。特に携帯ゼンマイ時計については、ニュールンベルク、アウクスブルクが有名でした。

一般的に、携帯ゼンマイ時計は1505年にニュールンベルクのペーター・ヘンラインが発明したといわれています。しかし、ニュールンベルクのゲルマニッシュ博物館に1430年にブルゴーニュ公の注文で作られたゼンマイ時計が飾られていたり、レオナルド・ダ・ヴィンチが、1488年に時報装置をつけた携帯時計を既に作っていた事実が残っているように、ヘンラインが発明したわけではありません。

では、なぜヘンライン伝説が生まれたのでしょうか。これには二つの理由があります。

一つ目の理由はメディアの力です。

ドイツ人のグーテンベルクが活版印刷術を発明したように、当時ドイツは出版産業の中心地でした。出版や版画については、文学、思想、芸術の革新運動であるルネサンスが生まれたイタリアより進んでいました。特にこの時代のニュールンベルクは、熟練した職人技術が発展していました。画家であるアルブレヒト・デューラー、靴職人の親方であるハンス・ザックス、そして時計職人であるペーター・ヘンライン、と様々な職人が活躍し、彼らのような職人たちを紹介する本が出回っていました。

ヘンライン伝説は、彼の作ったアロマを立てる香玉に入れる携帯ゼンマイ時計にラテン語で「Invenit et Fecit(考案し、製作した)」と明記されていたことが発端です。当時の時計職人はこの言葉を自分で作った時計によく刻みましたが、この言葉の意味は、その“機構“を“発明”した、ということではなく、その“モノ(=時計)“を“考案”して“製作”した、という意味です。
したがいまして、決してヘンラインが携帯ゼンマイ時計を発明したということではありません。しかしながら、出版の中心地であるニュールンベルクからその職人を紹介する本がヨーロッパ中に出回ったことで、ヘンラインが携帯ゼンマイ時計を発明したということになってしまいました。

もう一つの理由はドイツの愛国教育です。

ドイツは統一した1871年以降に、国民の心が一つになるような愛国教育を盛んに行いました。その教育の中で、1891年にヘンラインを主人公にした偉人伝が出ます。それには、携帯ゼンマイ時計はヘンラインが世界で初めて発明した、となっていて子供たちはすっかりそれを信じ込んでしまいました。また、1905年にニュールンベルクで携帯ゼンマイ時計の発明後400年祭が行われ、現存するヘンラインの銅像も建ちます。
第二次世界大戦が始まると愛国教育がさらに盛んになり、今度は映画が作られます。ヘンラインが主人公の“不滅の心”という映画で彼はさらに有名になります。第二次世界大戦の最中の1942年に、ヘンラインの死後400年の記念切手が発行されたこともありました。こうしたことで、彼が発明者だという誤った話が定着してしまいました。
 
●ヘンライン死後400年の記念切手


●ドイツ時計の二つの中心地(西編)

その後、アウクスブルクやニュールンベルクは宗教戦争の舞台になります。
これはかの有名なカトリックとプロテスタントの戦争です。プロテスタントが多い時計職人もその争いに巻き込まれ、ドイツの時計産業は衰退してしまいます。その後盛り返すのは19世紀に入ってからですが、盛んになった地域は、広い国土のドイツの西と東の端にありました。


西の時計産業の中心地は“黒い森”といわれるシュバルツヴァルト地域一帯でした。正確にはドイツ西南地域で、西はフランス、南はスイスに接する場所です。この地域一帯は、杉や檜の大きな森に覆われており、外から黒く見えるので“黒い森”という地名がついています。農業や林業が盛んで、人々は厳しい冬の間に、黒い森から取れる豊富な木材を利用した彫刻人形作りを副業にしていました。

そして、17世紀に、教会のパイプオルガンの原理を利用して、二つの笛の音の高低さで鳥の声を疑似的に鳴らす装置と精密機械とを組み合わせて、からくり時計を作りました。これが世にいうカッコー時計です。鳥のさえずりが「ポッポー」とも聞こえるので日本では鳩時計と言われていますが、実は「カッコー」と鳴いているカッコー時計というのが正しいです。「カッコー時計」の英語表記は「Cuckoo Clock」です。ドイツでは「Kuckucksuhren」でuhrenは時計という意味ですので、最初の「Kuckuck」がカッコーという意味になります。
産業や技術の発展に伴いフィリンゲン・シュヴェニンゲン という街を中心に精密機械や時計工房が増えていきました。ライン川という時計を運搬するためのインフラにも恵まれて世界に時計を輸出し、時計産業がどんどん栄えていきました。


●HÖNES社のカッコー時計


●カッコー時計の背面の様子


●カッコー時計の数々(東京日本橋横山町の“森の時計”にて)


この地域を代表する時計ブランドが1861年にシュランベルクという街でエアハルト・ユンハンスが創業したユンハンスです。同社は絶大な人気を誇り、1900年初頭には世界最大の置き時計ブランドとなり、シュランベルクの街がユンハンスの企業城下町となっていました。ユンハンスのスケールを大きさは、100周年記念の頃に6,000人の従業員が毎日2万個の置き時計や腕時計を作っていたことに表れています。今でも、長い階段を上がった丘の上に、もの凄く大きな工場があり、産業遺産にもなっています。

腕時計では、バウハウスという1919年にドイツで設立された世界初のデザインの総合教育学校出身のスイスのデザイナーであるマックスビルがデザインした腕時計が有名です。バウハウスのモットーである「形態は機能に従う (Form follows function)」を具現化しているとてもシンプルな時計です。また、1972年のミュンヘン・オリンピックの公式時計にも選ばれ、電波時計の最初の実用化にも貢献しました。
なお、シュヴァルツバルトではシュランベルクの他に、プフォルツハイムという地域も時計産業の中心地になっています。ここには小規模ですが、最近復活したブランドがあります。エザウォッチは、廃業となってから実に37年後の2016年にオランダの時計メーカーに買収され、プフォルツハイムに戻ってきました。

他に、西の時計ブランドとしては、ハンハルト、ストーヴァがあります。昔日本の三大時計メーカーでリコーに吸収されたタカノは、今は亡きラコのコピー時計を作っていました。このように西の時計はクロックを起源とし、今やウォッチにおいても時計産業の中心地となりました。

西の時計産業の特徴は二つあります。

一つは、第二次世界大戦において軍用時計製造という重要な任を担っていたため、軍用時計のレプリカが多いことです。大戦中、ラコとストーヴァは、ランゲ・アンド・ゾーネとともに、ドイツ軍のサプライヤーとなり、空軍向けの通称Bウオッチを製造していました。ハンハルトが開発したドイツ初の腕時計型クロノグラフは空軍に採用されました。ユンハンスは、爆弾のタイムスイッチである時限信管の製造を同社全体の製造割合の9割とし、当時同社の基幹産業としていたこともありました。

もう一つはその多くがスイスのムーブメントを使っていることです。
なぜならば、地理的に近いということと、昔あったECC(現EU)という貿易圏にスイスが入らなかったことが理由で、スイスがECC諸国にムーブメントを輸出するためにドイツを経由したからです。スイスは、シュヴァルツバルトにあるメーカーに時計を作らせるという手法で、ドイツ西側と密接につながっていたのです。それもあって、今でもプフォルツハイムの時計ブランドはスイスのムーブメントを使っているものが多いのです。

●ドイツ時計の二つの中心地(東編〜戦前)

もう一つの時計産業の中心地は東の端にあります。
ポーランドとチェコに隣接するザクセン州にあるグラスヒュッテという街です。グラスヒュッテの時計ブランドには、よくGLASHÜTTE I/SAと書いてあり、I/SA はin Sachsenを示しています。これはザクセン州のグラスヒュッテということで、他にもグラスヒュッテという名前の土地があるということを意味しています。

グラスヒュッテは地名ですが、直訳するとガラス小屋という意味です。今でこそ時計産業の中心地として名前が知られていますが、東ドイツ時代にこの街があることを知っていた人は誰もいないほど無名な街でした。したがいまして、当時、日本のオークションのカタログでグラスヒュッテを“ガラス風防”と訳し時計の名前としてしまうこともありました。このグラスヒュッテは近くにあるドレスデンを首都とするザクセン王国という独立した国にありました。1871年にドイツは統一されましたが、ザクセン王国は第一次世界大戦が終わる1918年までドイツ帝国に入らないほど独立心が高い州でした。

そのザクセン王国のドレスデンで1815年に生まれたのが、フェルディナント・アドルフ・ランゲです。彼はドレスデンにいたザクセン王国の国王付き時計士のヨハン・クリスチャン・フリードリッヒ・グートケスのもとで修行した後、イギリスやフランスで遍歴修行していました。遍歴修行とはドイツの伝統的な修行制度で、若い職人が故郷を離れ、世界を転々としながら各地の親方のもとで腕を磨いて経験を積むものです。パリでは、ブレゲの弟子にあたるヨゼフ・タデウス・ヴィンネルが営むヨーロッパ屈指の時計工房でも修行をしていました。


●グートケス(左)とアドルフ・ランゲ(右)

このころ、ヨーロッパ大陸では街が近代化して、鉄道、学校、工場などがどんどんでき始め、時計への需要が高くなっていきます。ランゲはこれを見ていて、これからは時計の量産時代が来ると確信します。そして、生まれ故郷に戻ったときに時計で村おこしをするという建白書を出し、政府から助成金を受け、1945年にドレスデン近郊のグラスヒュッテに入植します。
グラスヒュッテは昔、鉱山の街でしたが廃坑になり、当時は寂れた寒村でした。後に入植した仲間の中には、同じグートケスの門下だったモリッツ・グロスマンや、ランゲの娘婿だったユリウス・アスマンもいました。

量産体制を整えるために、まず、ランゲが始めに取り組んだのは規格統一でした。その当時、時計は一つ一つその都度作るものでした。最後の手作り時計士といわれているジョージ・ダニエル博士にいたっては、時計の設計図の完成後に規格を記録する有様でした。また、スイスにならい水平分業製造システムを構築して、弟子たちをどんどん独立させていきました。1878年にはモリッツ・グロスマンの働きかけによってを初代校長にした時計学校が創設されるなど[補足1]、グラスヒュッテには時計士を育成していく社会システムが整っていきます。

グラスヒュッテで時計産業が栄え始めたのはドイツの時計産業の東の中心地であるシュヴァルツヴァルトより遅い19世紀半ばですが、時計の聖地呼ばれるほど大成功し、現在もドイツの時計産業の東の中心地として君臨しています。今もあるモリッツ・グロスマン、ミューレ、テュティマなどは第二次世界大戦前にこの地で創業していたブランドです。

●ドイツ時計の二つの中心地(東編〜戦時中、戦後)

第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって、ドレスデン市街の8割以上を破壊する爆撃が行われました。それ以後も空爆があり、4月 5月の爆撃ではドレスデン近郊のグラスヒュッテも空爆を受けます。
近郊のなぜグラスヒュッテが狙われたかというと、時計を製造している地域では戦争で必須である時限信管や数々の武器を製造していたからです。 [補足2]

おまけにグラスヒュッテの場合、時計技術を求めてソ連が入ってきて、1949年にザクセン州全てが東ドイツになってしまいました。この事実はザクセン州が共産圏になることも意味し、同時に鉄のカーテンが引かれ、以後40年間、外国との交流が一切なくなってしまいました。
時計の聖地グラスヒュッテの情報が全く途絶えてしまったのです。その後、1989年にベルリンの壁が崩壊して、翌年に東西ドイツが再統合されたあとに分かったことは、鉄のカーテンが引かれていた間に、グラスヒュッテにあった多数のブランドが全て統合されてグラスヒュッテ時計製造という人民公社(GUB)になっていたということでした。


●GUB本社工房

その頃、ランゲの4代目のウォルター・ランゲは戦後に西ドイツのプフォルツハイムに亡命して、すでにランゲの名前で時計を作り始めていました。つまり、戦後に時計産業を復興しようと画策していたのも、またランゲだったということです。
東西ドイツ統合後、ウォルター・ランゲに声をかけた人が、ギュンター・ブルムラインです。彼は今日の機械式時計の復興を物語る上で欠かせない偉人の一人です。もともとユンハンス出身で、その後インターナショナルに行き、IWCとジャガー・ルクルトを統率していました。そして、ウォルター・ランゲに声をかけて、1994年に新生ランゲ・アンド・ゾーネを復興し、ランゲのコレクションが発表されました。その中心になったのがランゲ1でした。

●ランゲ1

このランゲ1は、グラスヒュッテの高級時計の特徴の全てを備えていると言っても過言ではありません。ここで重要な役割を果たしたのは、1994年にギュンター・ブルムラインがプロダクト・マネージャーとして招いたラインハルト・マイスです。ランゲの歴史を語るときにマイスの名前が出てくることはほとんどありませんが、大変な偉人で時計の歴史の専門家です。時計の技術者でもあり、トゥールビヨン・ブームを作った人です。マイスが1986年にそれまでに作られた全てのトゥール・ビヨンを徹底的に研究した“Das Tourbillon”を出したのがきっかけで、1990年代にトゥールビヨン・ブームが起きました。時計の技術と歴史に精通したマイスをプロダクト・マネージャーに招いて作り上げたのがランゲ1だったのです。そのおかげでランゲ1は時計通好みのディテールをたくさん備えた時計となりました。


●ランゲ 1

ランゲ1のいくつかの特徴をあげていきます。

まずはグラスヒュッテ製時計の目印といわれている4分の3地板です。地板というのは時計の歯車などの部品を留める板です。土台になる地板に歯車などのたくさんの部品を乗せていきます。そして、地板と同じ大きさの丸い板(通称:受け)をその上から乗せて小さなネジやくさびで留め固定していました。
そうすると、歯車などの部品を調整するには、小さなネジやくさびで留められた板を外して、終わったらまたかぶせて留め直さないとならないので非常に大変な作業でした。この状況を打開するために、最もいかれる確率が高い時計のテンポを決めるテンプだけを外に出すようにしました。この部分が4分の1なので、4分の3地板といわれるようになり、テンプだけは板(=受け)を外さなくても調整できるようになりました。

しかしながら、ランゲ1が出たころ、他の時計は18世紀にブレゲの師匠といわれるレピーヌが考案した棒状の板(ブリッジ)を使っていました。つまり、丸い板ではなく棒状の板(ブリッジ)で部品を一個一個上から留めることで、棒状の板(ブリッジ)を外すことなく歯車などの部品を調整できるメンテナンスに優れる仕組みが既に一般的になっていました。そのような状況にも関わらず、ランゲ1はわざわざ4分の3地板を復活させました。


●ランゲ1 ケースバック ©KIH

次はスワンネック緩急針です。緩急針というのは、時計の速度を決めるテンプの振りを緩めたり早めたりするために調整する部品です。一般的な緩急針では、針の位置を変え、ひげゼンマイに触れる稼働域を変えることで、時計の速度を変えます。しかし、振動によって揺れてしまう針は直接触れているひげゼンマイに悪影響を与えてしまいます。そこで、針自体を白鳥の首に似た部品で固定して緩急針の揺れをなくしたのが、スワンネック緩急針です。見た目が美しいため、クラシカルな高級モデルに採用されますが、このランゲ1にも搭載されています。

さらに、テンプの質量を中心に寄せ、振りを安定させる、ちらネジもつけました。その当時の金属の性質、加工精度、諸々の設計の成熟度合いから考えると、必要がないものなのですが、あえてつけました。なぜならば、ちらネジは時計通に受けるからです。
それから、4分の1部分にあるテンプを留めるためのブリッジには機能的には必要のない非常にきれいな彫金をほどこしています。さらに最高にマニアックなのが軸受石です。歯車を回す軸の摩擦を軽くするために軸を受けるルビーを軸受石といいますが、この地板に軸受石を直にはめるのではなくて、18金のシャトンという輪をつけて地板にビスで留めています。

極めつけは、あらゆる部品の“磨き”です。
時計の針の細かい面取り、裏の細かい部品の“磨き“の美しさは言葉も出ないほど素晴らしいものです。過去、NHKの番組で、ペグウッド(つげ、柳などの目の細かい木の棒)の先にダイヤモンドペーストをつけひたすら磨くという独立時計士のフィリップ・デュフォーの作業が紹介されていましたが、“磨き”というのは根気しかない単純作業です。
恐らくこれは旧東ドイツだから出来たことだと思います。スイスでさえそんなことをやる人はなかなかいません。ところが、旧共産圏というのは、労働者の権利が非常に守られていたので、このような連続した単純作業でさえ、それが報われる給与体系になっていたということだと思います。そういう辛抱強い職人がグラスヒュッテ時計製造という人民公社(GUB) には山ほどいました。このような理由でグラスヒュッテの多くのブランドの時計の“磨き”は完璧なほど美しいのです。

他にも、一切重ならない時分針、秒針とパワーリザーブ針や、黄金比(1:1.618)で構成される文字盤のデザイン、カレンダーの日付けの桁を別々のダイヤルで動かすビッグデイトなどもあります。後者は、師匠のグートケスがドレスデンのオペラ座に作った5分デジタル時計のオマージュです。

このようにランゲ1は特徴点を挙げだしたらきりがないほど、途方もなく手間がかかっている時計です。4分の3地板にはじまる非常に伝統的な技術に、東ドイツならではの辛抱強い磨き、さらに伝統と革新を融合する創造性豊かな文字盤は、ランゲのブランド・イメージをよく表しています。そして、「見えないところへもあえて手間をかける」というグラスヒュッテ製時計のイメージを作り上げていきました。

●グラスヒュッテで活躍するブランド

ランゲは、リシュモン傘下のL.M.H.のグループですが、グラスヒュッテ時計製造という人民公社(GUB) 本体が前身のグラスヒュッテ・オリジナルも、スウォッチ・グループの傘下で非常にいい時計を作っています。なかでも特筆できる点はムーヴメント部品の焼き入れです。多くの機械式ムーヴメントは硬度と耐久性を高めるため歯車などに焼き入れをしますが、品質管理が非常に難しいため外注するのが一般的です。しかし、同社ではこれを自社で行なっており、その技術力と設備規模は世界でもトップクラスです。旧GUBの手工業のノウハウを今でもしっかりと継承しています。


●グラスヒュッテ・オリジナル セネタ・エクセレンス Ref:1-36-01-01-02-30

ブランドとして途絶えていたモリッツ・グロスマンも、2008年に息を吹き返します。ランゲ出身のクリスティーヌ・フッターという女性の時計士が、偉大な時計士であるモリッツ・グロスマンの商標が浮いていることに気づき、借金してまず商標を買って、グラスヒュッテでブランドを立ち上げました。そのぐらいの人ですから、非常にマニアックな作りが特徴のブランドです。ローター型ではなく振り子型の自動巻である、ハンマーという意味のハマティックという機構を搭載している時計もあります。要するに、万歩計と同じ仕組みで、振り子が振れて巻き上げる機構です。


●モリッツ・グロスマン ハマティックRef:MG-002302(上)とハマティックのために開発されたキャリバー106.0(下)

さらに、文字盤に19世紀の表面加工技術であるシルバー・フリクション・コーティングと呼ばれる電気を用いずに、視認性と文字盤のきめ細やかなベルベットのような美しさを同時実現可能な技法を用いた時計も作っています。この技法は、グラスヒュッテ時計学校の創設者であるモリッツ・グロスマンが当時の学生に実際に教えていたもので、仕上がりの美しさが筆舌に値しますが、非常に手間がかかる技法です。電気を用いないという産業革命前の職人たちが編み出した特別な技法です。

また、時計屋から事業拡大したのがヴェンペです。このブランドはゲルハルト・デュートリヒ・ヴェンペが1878年に北ドイツのエルスフレートで始めた時計屋が起源です。1907年にハンブルクに進出し、ドイツからヨーロッパ各地に進出した高級時計店です。ヨーロッパの大きな街に行くと大概ヴェンペの時計店がありますが、自社ブランドでも時計を作っていました。ヴェンペは1938年にマリン・クロノメーターを作っていたクロノメーター・メーカーを買収しています。その時にランゲの3代目のオットー・ランゲと一緒にグラスヒュッテ天文台にクロノメーター研究所を作り、クロノメーターの研究開発を行いました。なぜならば、ベルリンの天文台からもらう時報の正確性に疑いがあったからです。当時の大都市ベルリンの空は常によどんだ状態で、惑星や恒星の位置を正確に特定できませんでした。加えて、時報は人がモールス信号によって電線でグラスヒュッテに伝えられていました。かかる状況下、ヴェンペの4代目女性社長のキムエナ・ヴェンペは、廃止になっていたグラスヒュッテ天文台を2005年に丸ごと買い取り、自ら時を計測することに決めました。そして、自社製品を作ると共に新しいクロノメーターの基準を作りました。それが、統一クロノメーター規格というものです。


●ヴェンペ スモールセコンド Ref:WG07 0002


●手巻きムーブメント 自社製キャリバーCW3.1(Ref:WG07 0002)

ちなみにクロノメーターとは、検定に合格した正確な時計につけられる名前です。
現在、クロノメーターの認定はスイスのクロノメーター検定機関(C.O.S.C.: Controle Officiel Suisse des Chronometres)、ドイツはDKDドイツ計量検定所の計量検定研究室(DKD-K-09801)で行っています。精度基準についてはどちらも似ていますが、大きな違いは検定のやり方で、スイスの検定はムーブメント単体で行うのに対して、ドイツの検定はケーシングしてから行います。ケーシングしてから検定に合格した方がより正確性が高いというところが、ドイツの検定の売りになっています。このように、ドイツクロノメーター規格を作って、ヴェンペが規格に合うような製品を自分で作り始めました。もちろん、自社ムーブメントはグラスヒュッテで作っているだけあって、4分の3地板になっているものが多いです。

このように、ドイツの東端にある時計産業の中心地は、手作りを基本にしたウォッチが起源で、手間をかけた伝統的な職人芸が売りです。


●まとめ

ドイツの時計は時代とともに、同地の東と西の端でそれぞれ発展してきました。西のシュヴァルツヴァルト地方のブランドはいち早くクロックの大量生産に成功し、そのノウハウを転用することでウォッチの量産化に成功しました。それに対して、手作りを謳い文句にしてきたのが東のグラスヒュッテのブランドです。つまり、クロックが起源で今やウォッチでも名を馳せている西、古くからウォッチで君臨し続けている東と、その起源の違いは今の時計作りにも反映されています。

しかし、このような地域による生い立ちの違いはあるものの、ドイツの時計は共通していることが一つあります。それは、今でもマイスター制度(日本の伝統工芸のように職人が弟子を取って技術を引き継いでいく教え方)があるように、実用性を重視した“モノ“を作る職人気質が根づいていることです。

一方で、スイスの時計はフランスの影響で宝飾品として発展してきました。特徴的なのが1970年代から流行り出したラグジュアリー・スポーツ(通称:ラグスポ)と呼ばれる、見た目を重視した時計を売りにしているブランドが目立つことです。
例えば、パテック・フィリップ(ノーチラス)、オーデマ・ピゲ(ロイヤル・オーク)、ヴァシュロン・コンスタンタン(オーヴァーシーズ)は、全てスイスの大御所の時計ブランドです。
その他のブランドでも、ブランパン(フィフティ・ファゾムス)、ウブロ(ビック・バン)などもラグスポの時計をブランドの顔としているものが多い傾向にあります。もちろん、ムーブメントも大変優秀ですが、見た目が重要な宝飾品に近いタイプの時計に注力しています。ある意味、時計をブランドビジネスと捉えているという意味では、ドイツの時計とは戦う土壌が違うのかもしれません。

一般的に、機械式腕時計というとスイスを頭に浮かべる方々が多いと思います。しかしながら、モノ作り時計職人の性格や地域性がデザイン、機構や仕上げに表れる今回取り上げたドイツの時計もいぶし銀ながら、時計そのものを実用品として洗練させ、真面目さをアピールしたものが多く、スイスの時計を凌いでいるものが非常に多くあります。

時計の性格を考えると、信頼を売りにしている弁護士、会計士、税理士など士業に携わる方々にぴったりなのではないかと感じます。このドイツの時計を東西ドイツの歴史にも思いを馳せながら、また違った趣のあるスイスの時計と見比べて楽しむと機械式腕時計に対する思い入れがより深くなり、かつ持つ悦びが広がっていくのではないかと思います。





1・11日付補足。
ドイツ在住でグラスヒュッテ時計博物館や時計ブランドの公式の通訳などを務められている宮田さんからご指摘をいただき、取り消し線を加えた記述部分を訂正させていただきました。
以下の[補足]は宮田さんからの寄稿によるものです。この場を借りて深く感謝申し上げます。

[補足1]
グロスマンは、時計学校の必要性を説き、ドイツ時計職人連盟にこの件を提案。連盟の会員費用の一部を学校運営費に使うことの賛同も受けます。それでも足りない分は、当時のザクセン王国からの資金援助も得るなど、グロスマンは、発起人でありオーガナイザーとして重要な役目を果たしています。
しかしながらグロスマンは、校長という立場はとりませんでした。グロスマンはその道のプロとしてドイツ人時計師でありスイスのラショードフォン時計学校で教鞭をとった経験豊富な、ゲオルグ・ハインリッヒ・リンデマンの評判をきき、グラスヒュッテへ呼び寄せ、初代校長として任命しています。


[補足2]
1945年4月半ばには、米軍はザクセン西部ツヴィッカウまで来ており、ソ連軍はベルリンとザクセン東部にまで侵攻していました。敗戦となることは確実であったにしても、ドイツ軍内部では新たな対抗戦としてザクセンの橋の数々を爆破したり、エルツ山地地方に装甲師団を移動させて、防御の基点を置いていました。
5月7日、とうとうグラスヒュッテにもドイツ装甲師団が入り、町の全ての企業に立ち退きを要求したそうです。
しかしこの時点ではソ連軍の侵攻も進んでおり、ドイツ軍は既に自身も守りきれなくなっていたそうです。
翌5月8日朝6時(ドイツ軍降伏の日、停戦は同日午後11時1分に発効とされていた)に、ソ連軍の戦闘機によってグラスヒュッテは爆撃を受け、一般市民やランゲの社屋も被害を受けました。
これは、ドイツ軍がいつまでも戦争を辞めず、攻防が続いていたため、たまたま装甲師団が駐屯していたグラスヒュッテに空爆攻撃をした、という極めて軍事的な状況であったのが理由です。
★これ以上、戦争時の詳しい状況は割愛しますが、グラスヒュッテが時限信管や軍事用になる機材や時計を作っていたので爆撃を受けたわけではありません。また、爆弾につかう時限信管は武器の一部にも入るのかもしれませんが、グラスヒュッテの主力産業はあくまでも時計や計器製造でした。